なくならない戦争。その悲惨を伝え続けるのは、体験者である私たちの使命だという海老名さん。あの日から79年。次の世代に願いを託しながら、こう呼びかけました。みんなで話し合い、手をとり合って暮らす。それが平和への道です。
きょうの潮流
焼夷(しょうい)弾が降り注ぐなかを、家族と必死に逃げた。たくさんの友だちを失った―。九死に一生を得た体験者の証言に聞き入る母と子の姿がありました
▼台東区民を中心とした実行委員会が毎年この時期に開く東京大空襲資料展。今年で37回を数え、会場の浅草公会堂には惨禍を生々しく伝える絵や写真、資料が所せましと並べられていました。「いまも平和が脅かされている。戦争を風化させないよう続けていきたい」と
▼きのう上野公園では「時忘れじの集い」が開かれました。両親ら家族6人を空襲で失った随筆家の海老名香葉子さんが呼びかけてきたもので20回の節目を迎えました
▼とうちゃん、かあちゃん、みんなーと泣き叫び焼け野原を探した日々。戦争孤児となって生きるのがつらかった戦後の体験。90歳となった海老名さんはいかに戦争が無残で、平和な日常が大切であるかをとつとつと語りました
▼国会では東京大空襲を経験した96歳の女性が、被害者を救済する法案の成立を一刻も早くと訴えました。全国各地で空襲被害にあった多くの人びと。しかし政府は救済を一貫して拒み、さらに苦しめてきました。「国は、われわれがこのまま死ぬのを待っているのか」。被害者や遺族は怒りをこめて
▼なくならない戦争。その悲惨を伝え続けるのは、体験者である私たちの使命だという海老名さん。あの日から79年。次の世代に願いを託しながら、こう呼びかけました。みんなで話し合い、手をとり合って暮らす。それが平和への道です。
エッセイストの海老名香葉子さん、20回目「時忘れじの集い」で不戦の誓い新たに 東京大空襲79年
「撃ち合いではなく話し合いを」 東京大空襲79年 惨禍を知る人たちは絶えない戦火に平和を願った
東京大空襲 1945年3月10日未明、現在の東京都江東、台東、墨田区などに米軍が実施した無差別爆撃。下町の木造住宅の密集地帯にB29爆撃機が大量の焼夷(しょうい)弾を投下し、強風も重なり大火災を引き起こした。死者は約10万人とされ、被災者は約100万人、家屋被害は約27万戸に上った。
遺族代表で焼香した墨田区の大日向(おおひなた)弘行さん(83)は当時、両親と埼玉県に疎開し無事だったが、祖父母を亡くした。慰霊堂への参拝を続け、子や孫に命や平和の大切さを伝えてきたという。「戦争を二度としてはならない思いでお参りした。忘れてはならないと、若い人にも伝わってほしい」と静かに話した。
会場隣では空襲資料が展示され、都が収録し大半が非公開となっていた戦争体験者の証言ビデオを映した。映像を見た大田区の高本安子さん(72)は「戦争を知る人々の貴重な証言。しっかりと残してほしい」と話した。(中村真暁)
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◆「逃げた時より忘れられない」言問橋で見た数々の遺体
東京都台東区の隅田公園にある東京大空襲戦災犠牲者追悼碑の前でも追悼式が営まれ、約150人が献花した。
追悼式は今年で37回目。東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会が主催した。(井上真典)
林家正蔵&林家三平、90歳の母・海老名香葉子さんの思い継承「戦争が悲惨だと」
エッセイストの海老名香葉子さん(90)が一般社団法人の代表として東京大空襲の被災者を慰霊する「時忘れじの集い」が9日、東京・上野で営まれた。あす3月10日は、東京大空襲から79年目にあたる。
コロナ禍で大々的な集いを見送って来たが、4年ぶりの制限なしの開催になり、北海道や九州からも体験者が集った。午前10時から寛永寺の慰霊碑前で「哀しみの東京大空襲」供養式、11時半から上野公園の「時忘れじの塔」で記念式典という二部構成。
海老名さんは「戦争のことを伝えることは、体験者の私たちの使命だと思います。平和の道のりは、伝えることにあると思います」とあいさつ。「地球上の人が手を取り合って生きることを願って、願って、体験をお伝えすることが平和への礎になってほしいと心から願っています」と呼びかけた。
記念式典のあいさつは、次男の林家三平が務めた。「我が家のカレンダーの3月9日には、せがれが○を付けています。その下の空欄には、『感謝の日』と書いてある。『サンキュー』という意味です」と、三平イズムも受け継がれていることを示唆。「(戦争に勝った国の)英語で説明書きがされていることが平和だと思います」と締めくくった。ENCOUNT編集部