維新応援団は急にシャキリキになって万博を擁護する。擁護する人間は「未来」という言葉を使いまくる。維新(橋下徹・松井一郎の利権漁りの確信犯)がどんな思惑で「博打」カジノを打ち出してきたか?そこに関わった自民党アベと菅がどんな取引をして「カジノ」推進を承諾したか?カジノは民間事業インフラ整備は税金でではできない。だから国策である万博を開催するという口実で「万博」=カジノとなった。開催予定地には他に真っ当な土地が候補に挙がっていたのに夢洲という最悪な土地を強引に決めた『松井一郎』。唯々独裁的な松井の浅いオツムで決定した夢洲なのだ。上下水道の処理能力不足、軟弱な土地で今莫大な余計な税金がかかっている。そこで働く労働者は日々危険な有害物質を浴びながら杭を打ち続けている。そのような経緯を古市は語らない。「おちょこで決まったカジノ=万博」「夢洲は大阪市の土地、カジノ業者に不当に安い土地の賃貸料の問題」など古市は知らないであろう。インチキで真っ黒ケッケの「万博=カジノ」なのだ。

 

「未来」を語るのは結構。しかし未来を語るには「今」を語らずに「未来」は語れないのだ。こんなお粗末な論を張る古市の姿勢、「利権漁り」の維新と立ち位置が同じ。能登半島地震の復興にという気持ちは何処にも古市には存在しない。少しでもあるとしたら今の万博遂行に少なくとも疑問を呈するであろう。

 

古市よ!昨日の建築界のノーベル賞”ブリッカー賞”を受賞した山本理顕氏の言葉を古市は刻み込め汚れてしまった胸の中に。「大阪万博、あれほどひどい計画は建築家から見たらあり得ないと思う、日常生活を阻害するような施設がIRカジノ、社会貢献をすることを前提にしてる博覧会に対して、明らかにカジノのための万博になっていると思います。そこに対して建築家集団は何も言わない」

 

そんな腐れ切った「利権」だけの万博=万博(賭博)に未来は語れるない、それでもかよっていう事か。『詭弁』で誤魔化すな!維新御用達人間だ古市は!

 

人類はそんなに“進歩”していない? カジノ・IR施設建設は2025年万博のレガシーとなるのか(古市憲寿)

 
 島には火山起源のものとサンゴ起源のものがあるという。火山島とサンゴ島では、利用できる資源が違うので、人間が住んでいる場合、そこに交易が生まれる。たとえばサンゴ島からは織物やベッ甲素材、火山島からは土器やウコンといった具合だ。そうやってオセアニアの島々では人類の交易が続いてきた。

 なぜ急にオセアニアのことを書き始めたかというと、国立民族学博物館へ行ってきたからだ。1977年に大阪万博跡地に開館したミュージアムだ。

「人類の進歩と調和」を掲げた大阪万博は「未来」らしさにばかり注目が集まる。確かに電気自動車や動く歩道など、当時としては物珍しいものが溢れていた万博は、訪れた人に未来を想起させる場所だった。人類は無限の進歩をしていくのだろう。21世紀は素晴らしい時代になっているのだろう。そんなふうに信じた来場者もいただろう。

 だが万博も一枚岩だったわけではない。太陽の塔の設計者として有名な岡本太郎は、万博準備中から「人類は進歩していない」と公言してはばからなかったという。そして進歩史観をもとにした未来志向の万博に、強い違和感を抱いていた(「季刊 民族学」165号)。

 そこで岡本は進歩とは真反対の原初的なモチーフを万博にぶっ込んだ。それが太陽の塔を中心としたテーマ館である。
 
 
 その時から岡本には「万博を利用して民族学博物館を造るべきだ」という構想があった。万博予算を使いながら世界中から民族資料を集め、太陽の塔の地下空間に展示したのである。特に「いのり」という空間では、おびただしい数の仮面や神像が並べられた。

 万博終了後、そうした資料は民族学博物館へ移管された。博物館自体に岡本はほとんど関わっていないというが、初代館長の梅棹忠夫らが構想を引き継いだ。

 博物館に、国宝や文化財に指定されるような貴重品はほとんどない。代わりに古今東西の人々の「日常」を垣間見ることができる。

 岡本の収集品はもちろん、時流に合った展示品も増えている。目についたのは「リュックサック」だ。現代のプロダクトの一例かと思って説明をよく読むと、「難民のたどった道」という展示だった。2014年にイラクを離れ、トルコ経由でオーストリアへ向かった難民女性の道筋を記録しているのだ。

 数万年前、全人類は難民のような存在だった。住む場所も食べるものもままならず、安住の地を求めてさまよった人々の子孫として現代人がいる。遠いところまで来たものだと思う。

 決して派手ではないし、大人気施設というわけではないが、国立民族学博物館は1970年万博のレガシーの一つだ。2025年万博はどのようなレガシーを残してくれるのだろうか。大阪が誘致を目指すのはカジノを中心としたIR施設。まあカジノも交易といえば交易施設。「カジノで大負けした人のたどった道」なども民族学博物館の展示材料の一つになるだろうか。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

「週刊新潮」2024年3月7日号 掲載
 

 

     

      

「民間にまかせればうまくいく」のか?日本も陥っている「新自由主義」「ネオリベ」の罠

 

なぜ効率化や合理化が進む世界で、「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」が増えているのか? ブルシット・ジョブにはどのような種類があるのか? ブルシット・ジョブ現象に対して私たちはどうすればいいのか?

『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』著者が、ブルシット・ジョブとはなんなのか、わかりやすく解説します。

ブルシット・ジョブとネオリベラリズム
ここでは、このBSJ論をかこむ時代的・社会的文脈について、お話をしてみたいとおもいます。それはネオリベラリズム、そして官僚制です。
みなさんも、ネオリベラリズムって耳にしたことがあるでしょう。「新自由主義」といわれることもありますし、「ネオリベ」と略されることもあります。お役所仕事は不効率でありすぐにばらまきに走って赤字を生む。それを「民間」にまかせればうまくいく。「民間」は市場原理によって動いており、ムダや不効率は削減されるからだ、といった大筋ではそんな発想です。

ある時期から、政治家が国公立大学はもちろん、足下のお役所になにか問題があれば、「そんな発想では民間では通用しない」と「民間」をそれこそ印籠のように掲げては、それにわたしたちをひれ伏せさせるといった光景まであらわれるようになりました。

このイデオロギーは、日本でも1980年代から浸透をはじめ、2000年代に全面展開をみせるようになりました。1980年代には、日本では、「レーガン、サッチャー、中曽根」と当時のそれぞれ、アメリカ、イギリス、日本の大統領や首相が並べられ、ネオリベラリズムの急先鋒とされていました。

かれらは「規制緩和」「自由化」そして「自己責任」といった言葉を掲げ、市場原理ないし「民間活力」の導入といった名目で、それまで国や自治体にゆだねられていた経営体や組織を解体し、再編成していきました。

BSJ論は、ある意味ではこの「ネオリベラリズム」現象に、独特の視角から照明をあてるものでもあります。

実際、序章の終わりで、2013年の小論の意図をこうグレーバーは説明しています。

「……その小論はまさに、当時のわたしが発展させていた一連の議論のひとつだったのである。レーガンとサッチャーの時代より世界を支配してきたネオリベラリズム(「自由市場」)のイデオロギーは、それが主張するものとは真逆のものであるという議論である。つまり、それは実際には、経済的プロジェクトに粉飾された政治的プロジェクトだったのである」(BSJ 13)

だから、小論ではその政治的含意を強調した、本のほうでは、もう少し体系的に展開するのだ、といっています。

BSJ論を理解するためにひとつもっておかねばならない構図は、いま本当であれば──つまり技術的発展やそれによる「経済」の「生産性」の向上といった条件にのみ限定するならば──ケインズの予言はあたっていてもおかしくないはずだ、というものです。ということは、なにかそれを実現させない、外的制約がかかっているということです。

ネオリベラリズムの失敗と強化
ここで具体的イメージを提示してみたいとおもいます。

『スノーピアサー』というポン・ジュノ監督の作品があります(わたしは映画版ではなく、TVドラマ版しかみていないので、そちらを念頭においています)。

気候変動の対策を放置しつづけてどうにもならなくなってパニックになったグローバル・エリートが、あせって誤った政策をおこなった結果、地球は人間が居住できなくなるほど寒冷化してしまっています。

そのような状況を予想して、走行しているかぎりみずから永久に駆動しつづける──動きをやめれば熱を発生できなくなり寒冷に吞まれてしまいます──列車を開発したエンジニア兼経営者がいました(TVドラマ版ではトランプそっくりにえがかれています)。

かれに巨額のお金を支払ったひと握りの人間、そしてかれらに奉仕する労働者、さらに出発直前に無理矢理乗車して最下層の奴隷状態におかれている少数の人々が、ひとつの社会を形成しています。

ところが、この科学者たちの対応の誤りで一時的に寒冷化した世界でしたが、実はすでに温暖化がはじまっていて一部の科学者はそれをいちはやく察知します。そして、この永久列車の世界からの脱却の道筋をつけようと奮闘します。

ところが、その世界を支配する人間は永久列車に人を依然として閉じ込め、支配したいために、その科学者たちの行動を妨害します。それは政治的ふるまいですよね。もし、その支配者が、みずからの行動を正当化する理論を与えたとします。それがイデオロギーといわれるものです。そして、それが「政治的プロジェクト」であるということの意味です。

ふつうネオリベラリズムは「経済的プロジェクト」とみなされています。それはむしろ、本来ならニュートラルなはずの市場原理に政府や労働組合の介入といった外的要因を導入したためにすべてが歪められてしまった、といつも宣伝しています。つまり「市場という魔法を解放し、ほかのいかなる諸価値にも優越する地位を経済効率に与える」というものです。

日本でも「民間にまかせればうまくいく」といって、続々と「民間の論理」なるものが導入されました。それでうまくいっているところ、あるいはその論理が導入されたあかつきにはこうなると公言していた当初の約束を実現しているところがどれほどあるでしょうか。

これはより大きな世界でもおなじです。グレーバーはこういいます。

「自由市場政策は、インドと中国を除いたすべての地域で例外なく経済成長率が著しく低下するという結果をもたらした。科学的、技術的な前進は停滞した。そして、豊かな国の大半では、数世紀ぶりに、若い世代がじぶんの親が送ったものよりも、貧しい暮らしを送ることしか期待できずにいる」

2008年のリーマンショックは、このネオリベラリズムの正当性を担保する論理をすべて破綻させました。ところが、です。

ふつうこうした失敗が長年つづくならば、その理論の正当性はそこなわれ、別の道が模索されるはずです。しかし、そうなっていません。それどころか、その失敗した方策を、その失敗の対応としてさらに強化して押しつけていくという、どうにもならない袋小路にわたしたちは突き当たっています。一体なぜでしょうか。(酒井 隆史 )