「ヤバイ。ヤバイ!」…「東日本大震災」発生から約1時間、「福島第一原発」のすべての電源が失われた「あまりに衝撃的な瞬間」

 
岸田政権はアベ政権より悪質。堂々と再稼働を言ってのけている。こんな無責任な政権はいらん!
 
 
東日本壊滅はなぜ免れたのか? 取材期間13年、のべ1500人以上の関係者取材で浮かび上がった衝撃的な事故の真相。他の追随を許さない圧倒的な情報量と貴重な写真資料を収録した、単行本『福島第一原発事故の「真実」』は、2021年「科学ジャーナリスト大賞」受賞するなど、各種メディアで高く評価された。今回、その文庫化にあたって、収録内容を一部抜粋して紹介する。
 
電源喪失4分の時間差 1号機爆発まで23時間59分
地震発生から51分後の午後3時37分だった。冷温停止に向けて順調に作業が進められていた中央制御室に異変が起きた。
モスグリーンのパネルに、赤や緑のランプが点灯する計器盤が瞬き始め、1ヵ所、また1ヵ所と消え始めたのだ。天井パネルの照明も消えていった。

当直副長の「どうした⁉」という問いかけに、運転員は「わかりません。電源系に不具合なのか……」と答えるのがやっとだった。

向かって右側の1号機の計器盤がパタパタと消えていった。天井の照明や計器盤も時間を置いてひとつ、またひとつと消えていった。

ただ、不思議なことに、左側の2号機の計器盤や照明は灯ったままだった。2号機側は、電源が維持されていたのだ。
 
2号機を担当する当直主任が大声で聞く。

「RCICの状態は?」

RCIC。正式名称、Reactor Core Isolation Cooling system、日本名では、原子炉隔離時冷却系と呼ばれる非常用の冷却装置のことだった。これまた正式名称が、英語、日本語とも覚えにくかったせいか、頭文字のローマ字4つをとってRCICと呼ばれていた。RCICは、原子炉から発生する蒸気を利用して、原子炉建屋地下にあるタービン駆動ポンプを動かして、タービン建屋の非常用タンクの水を原子炉に注ぐシステムだった。福島第一原発では、1号機を除いて、2号機から6号機のいずれにも備えられていた。

担当の運転員が答えた。

「RCIC止まっています」

RCICは、地震後、起動し原子炉を冷やすために水を注ぎこんでいた。ただし、RCICは、原子炉の水位が一定量を超えると、自動的に停止する。2号機のRCICは、地震後、2度ほど起動と停止を繰り返し、このときは停止していたのである。

当直主任が即座に当直長にむかって伝えた。

「RCIC起動します」

当直長が答える。「2号機、RCIC起動!」

「RCIC起動させます」

午後3時39分。2号機のRCICが動き始めた。

このとき、RCICを起動させたことは、この後の2号機の運転を大きく助けることになる。

この時点でも2号機側の計器盤や照明は、依然として点灯したままだった。1号機の電源は駄目になったが、2号機は助かった。幾人かの運転員はそう思った。運転員の一人は「2号機から1号機に電源を融通しよう」と頭の中で考えを巡らせていた。

しかし、その直後だった。2号機側の天井の照明や計器盤の赤や緑のランプが、ひとつ、またひとつと消え始めた。

やがて2号機側も真っ暗になった。午後3時41分だった。

それまでけたたましく鳴っていた計器類の警報もすべて途絶え、中央制御室は、静まり返った。1号機側の非常灯だけが、ぼんやりと黄色い照明を灯していた。そのわずかな照明以外、中央制御室は暗闇に包まれた。実に4分の間に、中央制御室は、1号機側から2号機側へと、ゆっくりと電気が消えていったのである。
 
「これは、本当に現実なのか」そんな思いが運転員の頭に浮かんだ。まるで、大掛かりなイリュージョンマジックを見ているかのようだった。しかし、まぎれもない現実だった。

暗闇を切り裂くように「SBO!」と鋭く叫ぶ声が響いた。当直長は、ホットラインを通じて、免震棟の発電班に「SBO。DGトリップ。非常用発電機が落ちた」と大声で報告した。

SBO=Station Black Out、ステーション・ブラック・アウト。全交流電源喪失の瞬間だった。

最後の砦だった非常用発電機が、何らかの原因で発電ができなくなり、すべての電源が失われたのだ。事態は、事前に定めていた事故対応の想定範囲から大きく外れていった。

中央制御室は、放射性物質の侵入を防ぐため、密閉構造で窓は一切ない。外の様子はうかがい知ることができなかった。原子炉の様子は操作盤に示される様々な数字やランプの灯りで把握できるようになっていた。しかし、その計器は今や消えてしまい、一切がわからなくなってしまったのだ。外の情報は専用回線によって電源も免震棟と繋がっているホットラインで知らせを受けるしかなかった。閉ざされた空間の中で誰もが自分たちが暗闇に包まれた原因を頭の中で懸命に探ろうとしていた。しかし、まったく思いつかなかった。一体、何が起きたのか。答えが見つからない不安からか中央制御室は沈黙に包まれた。突然、その静寂を破るように、「ヤバイ。ヤバイ!」という叫び声をあげながら2人の運転員が部屋に入ってきた。地震の揺れがおさまった後、サービス建屋2階にある中央制御室を出て、機器の点検のためにタービン建屋を巡回していた運転員だった。2人とも真っ青な顔をして腰から下はびっしょりと水で濡れていた。「海水が流れ込んでいる!」2人は怯えをこらえながら大声で報告を始めた。中央制御室のあるサービス建屋の1階が腰のあたりまで海水につかっている。タービン建屋地下1階も水びたしだという。このとき、当直長は、非常用発電機を止めた犯人は津波だと確信するに至った。

 
1号機爆発まで24時間50分…東日本大震災が発生した「まさにその瞬間」の「福島第一原発」の「あまりに緊迫した状況」
 
3・11 そのとき、吉田は 1号機爆発まで24時間50分
 窓の外の太平洋に灰色の雲が垂れ込めていた。

 2011年3月11日午後2時半すぎ。福島第一原子力発電所の事務本館2階にある所長室で、吉田昌郎((*)56歳 *年齢・肩書はすべて当時のもの)は、机に広げた書類に目を走らせながら、午後3時から始まる会議を待っていた。会議は、原子力部門から他部署に出向している部下たちの報告を受け、部署を超えた交流の成果について話し合うものだった。きょうは金曜日。会議の後には懇親会も開かれる。久しぶりに会う顔なじみの部下と杯を傾け、週末は休めるはずだった。

 福島第一原発は、福島県浜通りの太平洋に面した広大な敷地に、6つの原子炉を有していた。1967年にアメリカGE社によって建設が開始され、東京電力が運転する初の原発となった1号機。国内メーカー各社が国産の技術を開発し建設にあたった2号機から6号機。この日、4号機から6号機は定期検査のため運転を停止し、1号機から3号機の3つの原子炉がフルパワーで電気を作り出していた。原子炉の核燃料は臨界状態を維持し、高温高圧の蒸気が巨大なタービンを回して、およそ200万キロワットもの電気を、最大の電力消費地である東京をはじめとする首都圏へと送り出していた。構内では、東京電力や協力会社の社員がそれぞれのマニュアルに従って、規則正しく作業にあたっていた。原発はいつものような週末を迎えようとしていた。

 午後2時46分のことだった。吉田は所長室がかすかに揺れ始めるのを感じた。あっ地震だ。反射的に立ち上がった。揺れは次第に大きくなり、立っていられなくなるほどの強烈な上下動になった。これは大きい。がちゃという金属音が聞こえ、テレビがひっくり返った。吉田は机の下にもぐろうとしたが、揺れが激しく185センチほどある長身を思うように動かすことができず、机にしがみついているのがやっとだった。

 三陸沖深さ24キロを震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が原発を襲った瞬間だった。震源に近く最も揺れが激しかった宮城県栗原市では最大震度7。震源から180キロ離れた福島第一原発は、震度6強を観測した。

 5分は続いたと感じられた長い揺れは、実際には3分後にようやく収まった。

 吉田は所長室を飛び出した。目の前に広がる総務班の部屋は、本棚が倒れ、至る所に書類が散乱していた。天井の化粧板がほぼすべて落下し、白い煙のようなほこりがあたり一帯にもうもうと漂っていた。数人の総務班の部下が目に入り、吉田は思わず「どうだっ」と大声を出した。「みんな避難しています」比較的冷静な声が返ってきた。ちょうど1週間前に、避難訓練を行ったばかりだった。吉田は残っていた総務班員と一緒に、1週間前に確認した避難通路を通って、避難場所に定められていた事務本館の西にある駐車場に向かった。ところが、避難通路の途中まで来ると、舞い上がっていたほこりを煙と感知したのか、火災は起きていないのに防火シャッターが下りていて、行く手を阻まれてしまった。何事も訓練通りにはいかない。吉田と部下は、遠回りをして階段を下り、他の所員よりやや遅れて避難場所の駐車場にたどり着いた。駐車場には、すでに大勢の東京電力の社員や協力会社の社員が集まっていた。吉田の目には、ざっと700~800人は集まっていると映った。4号機から6号機が定期検査を行っているため、構内には、作業にあたるメーカーの社員も含めいつもより多い6350人もの人が働いていた。その一人一人の安全が、リーダーである吉田の肩に重くのしかかっていた。この日は、日中になっても気温が10度に届かず、どんよりした雲から小雪もちらつき始めた。寒さに震えている女性社員もいた。吉田は、すぐにグループマネージャーと呼ばれる課長級の社員に指示を出した。「グループごとに安否確認して報告しろ」まず、安否確認であり、何より所員の安全だと考えていた。駐車場では総務班長がトラックの荷台に立ち、拡声器を手にしてグループごとに安否を確認するよう叫んでいた。

 吉田は足早に避難場所のすぐ南に建つ免震重要棟に向かった。

 免震棟は、8ヵ月前に完成したばかりだった。4年前の2007年7月に起きた新潟県中越沖地震で柏(かしわ)崎(ざき)刈羽(かり わ)原発の事務棟が破損し、対策本部の機能を十分果たせなかった教訓を受けて建設されたものだった。その名のとおり震度7の地震に耐えられる免震構造で、放射性物質を除去する高性能のフィルター付きの換気装置やガスタービンによる大型の自家発電機を完備していた。

 小さな体育館ほどある550平方メートルの2階フロアには、25人が座れる楕円形の円卓があり、その円卓を取り囲むように、発電班、復旧班、医療班、通報班など12班の緊急対応の担当チーム用の大型の机が配置されている。緊急時には406人が集まり、事故対応にあたることになっていた。

 地震から15分が経った午後3時すぎ、吉田が円卓中央にある本部長席に駆け上がってきた。すでに到着していた発電班長が緊張した面持ちで指示を飛ばしていた。「浮き足立たないで落ち着いて確認しろ」吉田はまず言った。「余震があるかもしれないから、その注意はちゃんとしておけ」と念を押した。

 円卓に近い壁面には、200インチある大型プラズマディスプレイ画面が光っていた。緊急時に各原発と本店を結ぶテレビ会議システムだった。東京電力の鉄塔の送電網を走る光ケーブル回線で結ばれたこのシステムは、前年6月に画面を鮮明なハイビジョンテレビに更新し、操作も簡便になっていた。激しい揺れで各社の電話回線が不通になったり、輻輳(ふく そう)したりする中で、中越沖地震で耐震対策を強化したこともあって、テレビ会議システムは支障なく立ち上がっていた。6分割の画面には、本店の緊急時対策室が映し出されていた。本店は「大丈夫か?」「安否確認はどうだ?」とさかんに聞いてきていた。遠く離れた大勢の関係者をリアルタイムに結ぶ、時代を先取りしたこのシステムが、この後の事故対応に微妙な影響を与えていく。

 吉田のもとには、各グループから次々と安否確認の報告があがってきた。幸い大きなけが人はなく、最大の心配事がひとまずなくなった。吉田は胸を撫で下ろした。右隣には、1号機から4号機を統括するユニット所長の福良昌敏(ふくら まさとし)(53歳)が座った。福良は吉田の右腕として、福島第一原発の運転指揮にあたってきた幹部だった。

 「1号、2号、3号ともスクラムしました」発電班長が報告した。

 円卓近くには、ホワイトボードが引っ張り出され、1号機から6号機までの状態が書き込まれた。1号機から3号機の下には、「スクラム成功」と書かれていた。

 スクラムとは、制御棒を原子炉に挿入することだ。制御棒は核分裂反応を止めるホウ素でできている。いわば原発のブレーキだった。原発は、大きな揺れを感知すると制御棒が自動的に原子炉の中に入って、核分裂反応を止める仕組みになっている。運転中だった3つの原子炉は想定通りスクラムし、止まったのだ。「大丈夫だ」吉田はそう思った。

 「DG起動しています」発電班長が続けて報告した。吉田は即座に「外部電源がやられたのか」と思った。DGとは、Diesel Generator、軽油で動く非常用のディーゼル発電機のことだった。皮肉なことだが、原発は、自分を動かす電気を外から送電線でもらう仕組みになっている。地震で送電線か何らかの電源機器が壊れ、外部からの電源を失ったのだと吉田は推測した。外部電源を失うのは、初めての事態だった。

 ただ、外部の電源がなくなったにしろ、非常用発電機は動いている。

 「ひと安心というところか」福良はそう思った。「とりあえず電源はあるな」吉田もこの段階では、緊張の中にもいつもの平静さを保っていた。

 

「これでもう何もできなくなった」…「東日本大震災」発生直後、暗闇の中で「福島第一原発」の職員たちの頭に浮かんだ思い


暗闇の中央制御室 1号機爆発まで23時間45分
 暗闇に包まれて10分。中央制御室では、運転員たちが、灯りになるものを必死で探していた。LEDライトの懐中電灯や携帯用バッテリーつきの照明機器……。30個は見つかっただろうか。かき集められた灯りを頼りに、運転員たちは、操作盤や計器盤の中で生きている計器はないのかをしらみつぶしに調べた。しかし、ほとんどの計器が消えていた。原子炉の水位や温度といった原発の状態を把握するための数値や原発を動かす様々な装置の作動状況を知るためのデータがわからなくなってしまった。これでは、目隠しをして車を運転しろと言われたようなものだった。事態は、マニュアルのどのページにも載っていない未知の領域に突入していた。「五感を失った感覚」「手足を奪われたような状況」「これでもう何もできなくなった」そうした思いが運転員たちの頭に浮かんだ。ほどなく何人かが当直長に歩み寄った。現場に確認に行きたいと告げるためだった。

 しかし、新たな津波が来るかもしれない今、中央制御室を出て、原子炉建屋の中にある機器を確認するために歩き回るのは危険だった。当直長は、頭を巡らせた。当直長は、アメリカ同時多発テロで火災を起こしたワールドトレードセンターの救助にあたった消防士の救出活動に強い関心を持ち、危機の中での人間の行動を描いたノンフィクションを読んだり、ドキュメンタリーを何度も見ていた。そこから学んだのは、危機のときは常に生還の手立てを考えながら行動すべきという教訓だった。

 しばらく考えた末、当直長は部下たちに言った。「ルールを決めよう」中央制御室から出るときは、当直長に許可を得て、必ず2人一組で行動する。調査は2時間以内。行き先を明確に決め、出発前に許可を得た場所以外は絶対に行かない。危機の中で編み出したマニュアルにはない独自のルールだった。

 運転員一筋で育ってきた運転員たちは、先輩後輩の上下関係を重んじ、仲間意識も強かった。そのリーダーが決めたルールは絶対だった。

 計器が見えなくなったことで、当直長を最も悩ませたのは、冷温停止に向けて動き始めたはずの非常用の冷却装置の動きがわからなくなったことだった。

 2号機のRCICは、電源が失われる前、確かに起動させた。RCICは、いったん起動させると、原子炉から発生する蒸気の力で動く。しかし、バッテリーで動く電動モーターや弁で、蒸気の量を制御しながら、原子炉に水を注入する仕組みになっているため、バッテリーがないと、注水が維持されているかどうかわからなかった。バッテリーが使えなくなった今、RCICは止まっている可能性もある。それを判断するためのRCICの計器盤にある赤と緑のランプも消えたままだった。

 1号機のイソコンは、いったん起動すれば、電気がなくても、蒸気の力で動き続け、原子炉建屋4階にある冷却水タンクを通って冷やされた水が注がれ、原子炉を冷やし続けるはずだった。しかし、イソコンの計器盤のランプが消えてしまっていた。イソコンの操作盤のレバーは、操作した後、手を離すと、必ず中央の位置に戻るようになっている。弁が開いている場合は、赤いランプが点灯し、閉じている場合は、緑のランプが点灯する。レバーは、何度も操作すると、その度にレバーが中央に戻るので、弁が閉じているか開いているかは、点灯しているランプの色で判断することになる。そのランプが消えてしまった今、弁が開いているのか、閉じているのかがわからなくなってしまったのである。

 当直長は、免震棟に繋(つな)がるホットラインの受話器をとって、大声で言った。

 「ブタの鼻を見てくれ」

 ブタの鼻とは、1号機の原子炉建屋の西側の壁、高さ20メートルにある2つの排気口のことだった。横並びに空いた2つの穴がまさしくブタの鼻のように見えることから、そう呼ばれていた。当直長は、かつて運転員の先輩から、イソコンが作動すると、このブタの鼻から白い蒸気が勢いよく出るという話を聞いたのを覚えていたのである。1号機の西側の壁は、中央制御室のある建屋からは見えにくい位置にあったが、1号機の北西にある免震棟からは、比較的よく見える位置にあった。1号機の運命を握るイソコンが動いているかどうか。その判断はマニュアルに掲載されていないベテラン運転員の間に伝わる記憶に委ねられたのである。

 
「巨大津波」はいったいどのように「福島第一原発」を襲ったのか…「電源喪失」の真相
 
電源喪失の真相
 先例のない危機のとば口となった巨大津波。それは、いったいどのように福島第一原発の電源を奪っていったのだろうか。

 事故から7年近くが経った2017年12月、東京電力は未解明事項の5回目の検証結果を明らかにし、中央制御室で目撃された1号機から2号機へと、実に4分の時間差を経て照明や計器が消えていった不思議な現象に着目して、次のように説明した。

 原発沖合の波高計から、原発を襲った津波は、巨大津波の第2波の3つある波のうちの2番目の波で、その高さは13メートルあまりあった。津波は、高さ5・5メートルの防波堤をやすやすと乗り越え、海岸に平行して高さ10メートルの敷地に建てられた1号機から4号機のタービン建屋に、大きな時間差なく到達した。この時刻は、午後3時36分頃。このとき、1号機のタービン建屋の海側にある大物搬入口は、いつもは閉じられている防護扉が作業のため開けっ放しで、シャッターだけが閉められていた。シャッターは、津波がもつ50トンの強い水圧に耐え切れず、ひしゃげて押しつぶされ、大量の海水が建屋内に流れ込む。シャッターの先には、非常用発電機の電源盤が2系統仲良く並んでいた。海水は、2メートルある電源盤のほぼ真ん中の高さを走りぬけた。電源盤は、家庭でいうとブレーカーのようなものである。海水を浴びた電源盤は、たちどころにショートし、繋がっていた地下1階の非常用発電機は、家庭でブレーカーが飛ぶと電化製品が停電するように、その動きを止めた。これが午後3時37分頃のことだった。
一方、2号機のタービン建屋1階の海側には、給気ルーバと呼ばれる非常用発電機の換気口が、ぽっかりと口を開けていた。午後3時36分頃、大量の海水が給気ルーバから一気に地下1階へと流れ込んだ。2号機の非常用発電機の電源盤は、地下1階の電気品室にあった。地下1階に流れ込んだ海水は、電気品室の仕切り扉を乗り越えて、徐々に電気品室に溜まっていき、電源盤をショートさせた。繋がっていた非常用発電機が停止した時間は、午後3時41分頃。こうして、1号機から2号機は4分の時間差をもって、電源を失っていった。これが、津波が押し寄せる様子をとらえた連続写真や、電源盤と非常用発電機のデータを分析して打ち立てた東京電力の「説明」だった。

 ここには、津波から避難する前に大物搬入口の防護扉を閉めていなかったことや、大物搬入口すぐ近くに非常用の電源盤を2系統とも並べて配置していたという危機分散の基本がなっていなかった痛恨の教訓がこめられている。

 ところが、専門家らと福島第一原発の事故検証を続けている新潟県技術委員会は、事故から10年近くが経った2020年10月に公表した報告書で、東京電力の「説明」に疑義を唱えている。その理由は、津波の原発敷地への到達時間が、東京電力の言う午後3時36分台ではなく、もっと遅かったのではないかという点にあった。津波の到達時間については、当初から国会事故調査委員会が津波の連続写真の分析から、原発を襲った津波は、東京電力の言う巨大津波第2波の2番目の波ではなく、その後の3番目の波であり、その到達時間は、午後3時38分台だったと主張している。すると、午後3時37分とされる電源喪失の原因は、原発敷地を乗り越えた津波が電源盤を被水させたためという東京電力の「説明」は崩れてしまう。

 新潟県技術委員会は、この説をベースにしながら、電源喪失は、原発の地下に張り巡らされた循環水系や冷却系の配管のどこかが地震で損傷し、そこから津波が流入し、地下1階の非常用発電機が浸水したことによって起きた可能性が否定できないと指摘している。1号機の循環水系の配管は、建設当時、耐震評価されていないことから地震の揺れで損傷した恐れを否定できないというのだ。もし、この「仮説」が真相に近いとすれば、原発地下にある配管の安全性に疑義があるという重大な教訓を突きつけることになる。ただし、この「仮説」を裏づけるためには、タービン建屋地下を詳細に調査し、配管が損傷していることを示す有力な証拠を見つける必要がある。しかし、タービン建屋地下の調査は、事故から10年あまりが経っても強い放射能に阻まれ、実現する見通しすら立っていない。

 巨大津波は、どのように福島第一原発の電源を奪っていったのか。その真相は、今もまだ謎に包まれたままなのである。