周辺に集まった人々がそれぞれの思いを付箋にたくし、追悼碑に貼ったのです。

「忘れません。子ども達に伝えます」 「加害の歴史はなかったことにできない。忘れない」 「これからは自分が記憶し反省し、友好を進めていきます!!守れなくてごめんなさい」

人々が心に刻んだ追悼碑への思い。誰にも取り去ることは出来ません。

 

 

群馬県にある朝鮮人の追悼碑が、県の行政代執行によって撤去されました。この追悼碑は戦時中に、戦争の遂行のため、日本で働かされた朝鮮の人たちを弔うものでした。なぜ、どのような思いでこの碑は建てられたのか。そして何故、撤去されることになったのでしょうか?

「著しく公益性に反する」 群馬県が朝鮮人追悼碑を行政代執行で撤去することに
追悼碑は木々が生い茂る県立公園「群馬の森」の隅っこにポツンと建っていました。
正面には「記憶 反省 友好」の文字。戦時中、群馬県で亡くなった朝鮮人労働者を弔う碑です。

戦争による労働力不足を補うため、植民地だった朝鮮半島から多くの人々が労務動員されました。日本の戦争遂行のためにかり出されたのです。

その数は、旧厚生省調べによると66万7684人。群馬県も例外ではありませんでした。

追悼碑は20年前に建てられた時から何も変わっていません。それを取り巻く状況が変わったのです。

かつて設置許可を出した群馬県が、いまは追悼碑の存在自体が「著しく公益性に反する」として、行政代執行による撤去を決めたのです。

 

1月28日。行政代執行前日、多くの人が集まっていました。花を手向ける人。碑文を洗い清める人。それぞれのやり方で別れを告げました。

突然、現場の空気が変わりました。多くの警察官が動員され、碑を取り囲むように壁を作ります。

追悼碑を巡っては、10年ほど前から「反日的だ」「碑文の内容はデタラメだ」と一部団体から執拗な抗議が県に寄せられてきました。

追悼碑建設に関わったひとりは、怒りを抑えながら訴えます。

追悼碑を守る会 石田正人さん

「腹が立つんだけど、右翼との対応は避けてください。私の方からもお願いします」

午後3時。殺伐とした空気の中、有志による集いが始まりました。

「今、聞いておかないともう永久にわからなくなる」追悼碑を建てた市民団体の思い
県立公園の一角に追悼碑が完成したのは2004年。当時の群馬県知事や、自民党の元県連幹事長らが追悼の言葉を寄せる様子が映像には残っている。

追悼碑を建てたのは、戦時中の朝鮮人の労務動員について史実の掘り起こしをすすめてきた市民団体だ。

メンバーの一人、矢中幸雄さん(80)。日本人も含めて60人近い人たちの証言を聞きとってきた。

矢中 幸雄さん(80)

「戦後30年40年経っていても、あまり話したがらなかった。『あの経験は俺たちで十分』『伝えることもない』『もう思い出すのも嫌だ』と。そういう人たちが多かった」

「日本人の私たちも、本当に嫌な経験だけどポツリポツリと話してくれた。そういう人たちに本当に感謝しています」

 

聞き取りを記録していた映像が残されている。

朝鮮半島出身の男性は日本で働けば、十分な食事に酒も出ると勧誘されて船に乗ったものの、全くの嘘だったと話す。

朴 逸初さん(当時80)

「日本に来て最初、ご飯くれるの見たら全然話が違う。二月、三月目に入ったら眩暈がする。腹がへっちゃって。飯食わさないから。こんな小さいたくあんが、今の500円玉くらいのが3つ。みそ汁はちょっとだけ」

過酷な作業現場で弟が亡くなったこと。終戦後は朝鮮人だからと補償から外されたこと。カメラには、そうした話に静かに耳を傾ける矢中さんたちの姿も映っていた。

市民団体の代表・猪上輝雄さんが証言を聞く理由を語っていた。

猪上 輝雄さん(当時66・享年87)

「今、聞いておかないともう永久にわからなくなる。歴史から消えてしまう。どのくらい残せるかわからないけれど、こういう事実を書き留めたり、資料として残して。それを今、日本人が知らないと、今後の日本と朝鮮の関係もうまくいかない。年取った私たちの責任でもあるけれど、日本の若い人たちに伝えていきたい」

「過ちを繰り返さない決意を表明する」碑文に刻まれた思い

 


 

市民団体は、収集した古い文書や証言を冊子にまとめた。

群馬県内では少なくとも18か所、約4600人の朝鮮の人々が強制的に動員されたとしている。

「家族との別れも交わせずに連れてこられました」 「警察がついて回り、逃げることはできません」

長年、放置されていた朝鮮人の労務動員の実態。史実を掘り起こすうち、市民団体は追悼碑の建立を目指すようになった。

動員が国の政策として行われた以上、碑は公有地に設置することが重要だと考え、群馬県に場所の提供を求めたのだ。

村山 富市 首相(1995年当時)

「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大な損害と苦痛を与えた」

植民地支配への謝罪や反省を表明した、戦後50年の村山談話。加害の歴史に向き合う機運が生まれ、2001年、群馬県議会は全会一致で追悼碑の建立を認めた。

碑文の内容は、県や外務省も交えた2年がかりの話合いで決まった。

「政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、尊い命を失った人も少なくなかった」

「過ちを繰り返さない決意を表明する」

「アジアの平和と友好の発展を願うものである」

「憩いの場である公園にふさわしくなくなった」 突然の県による撤去の決定
ところが2014年。県は、碑の撤去を求めた。

群馬県知事のコメント 「追悼碑の存在自体が論争の対象となり、憩いの場である公園にふさわしくなくなったことから、更新を不許可とする判断をしました」

背景には、“碑文は捏造”などという歴史修正の動きがあるとみられている。

2012年頃から、ネット上で設置を許可した県や県議への抗議の呼びかけが広がっていた。実際、県には2012年~2014年の間に400件以上の電話やメールが寄せられていた。

さらに公園の前で、碑の撤去を求める団体と公園の職員らが小競り合いになる事態も起きている。

県は、碑の前で行われた式典での参加者の発言を問題視し始めた。

それは碑文ではあえて使わなかった“強制連行”などを含んだ発言。これが “政治上の目的には利用しない”という碑の設置条件に違反しているとしたのだ。

市民団体は、言いがかりだとして訴訟をおこし、8年あまり戦ってきた。

しかし、最終的に追悼碑は公園にあるべき「中立的な性格を失った」として県の判断は「適法」という判決が下された。

判決を根拠に県は、碑を強制的に撤去する行政代執行を決定。費用の3000万円を市民団体に請求している。

群馬県・山本一太 知事「今や公益に反する存在になってしまっている」

 


 

知事の定例会見では 記者たちから代執行を決めた理由を問う質問が相次いだ。

山本知事は、「最高裁で判決が出た」ことを繰り返し強調し、「法治国家として粛々と行う」と述べた。

日下部 正樹キャスター

「一方で碑を巡っては、『あの追悼碑は反日的である』『書いてある内容もでたらめじゃないか』『どこに犠牲者がいるんだ、証拠を出してみろ』みたいなグループもいますね。この意見について知事はどう思いますか?」

群馬県 山本一太 知事

「私はそういう考えを持っていません。あの碑が作られた目的については県としても、否定はしておりません。その目的のもとで、しっかりと運営されていれば問題はなかったかもしれませんが、さっき言ったような理由で、今や公益に反する存在になってしまっている。それについて、裁判という民主的なプロセスでしっかり議論した結果、最高裁で判決が出た」

あくまで撤去の判断は、政治的な集会は行わないという「条件違反があった」から。そして、すでに論争の対象に発展したものを公園に放置することが「著しく公益に反する」からとした。

群馬県 山本一太 知事

「歴史認識の問題ではなくて、そもそも決めたルールが破られたっていうことが理由なので、この碑の撤去と歴史認識をねじ曲げるようなことは私の中では全く繋がっておりません」

しかし、撤去を支持する人たちの反応は…

撤去を求めてきた団体のブログより

「今、日本人が、真の歴史を知る転換点を目撃しているのかもしれない」

杉田水脈衆院議員のSNSより

「日本国内にある慰安婦や朝鮮半島出身労働者に関する碑や像もこれに続いてほしいです。嘘のモニュメントは日本に必要ありません」

「臭いものに蓋をしたいときに持ち出す論理」 専門家は全国の追悼碑に影響する可能性を懸念
群馬大学の藤井正希准教授は、今回のケースが全国の追悼碑に影響する可能性を懸念している。

群馬大学(憲法学) 藤井正希 准教授

「意図的ではないにしろ、そういう人たちの主張を助長して喜ばせるような、そういう動きを県がとってしまった。今回、そこが大きな私は禍根を残すと思っています」

日下部キャスター

「何かの意図を持って抗議をすれば、そこが論争の対象になっちゃうと、つまり行政としては、公平性を保てないと言って全て群馬の今回のようなケースになってしまう」

群馬大学(憲法学) 藤井 准教授

「県立公園に、例えば日の丸を掲げたとするじゃないですか。その時に、日の丸を国旗として認めないという人たちが、日の丸の前で抗議活動、反対運動を行ったとしますよね」

「県の論理でいけば、日の丸は『紛争の対象になった』。ですから『公園施設としてふさわしい性格を失った』から今後掲げないということになる。しかし、そうは絶対考えない。都合よく臭いものに蓋をしたいときに持ち出す論理だと、私は思ってます」

「28年でこんなにも変わるのか」
市民団体の発足から約30年。すでに亡くなった初期のメンバーも少なくない。

元事務局長 神垣宏さん(87)

「守りたいですね。守りたいです。簡単には撤去を許すわけにはいきません」

聞き取り調査を撮影していたのは、当時20代だった在日コリアンの金泰浩さん。日本の人たちの姿を見た時の思いを振り返る。

在日コリアン2世 金泰浩さん(54)

「(日本人が)過去の問題について反省して調査すべきだと、熱意をもって、手弁当でここまでやる人が、こんなにいっぱいいるのかと。そこに胸を打たれて一緒に活動してきた。この状況というのは、その時から28年でこんなにも変わるのか」

当事者の証言を聞いてきた矢中さんはまだまだ努力が足りなかったと、自責の念に駆られている。

日下部キャスター

「いろんな調査を積み重ねて、群馬県との交渉を通じて群馬の森に追悼碑が建ったとき、どんな思いを?」

矢中 幸雄さん(80)

「これが始まりかなと。ああ、これからだと。これで人々に知らせる形ができた。これを伝えていくのは、やっぱり日本人だよなって。みんなそう思ったと思う。私もそうだった。ああ、これがスタートだと」

日下部 キャスター

「この追悼碑ができた、その意志みたいなのをどんどんつなげていく」

矢中さん

「本当にそう言い切れればいいんですけどね。それが本当にこんな形で現れたってことに関して、悲しいですね。本当に悲しいですね。…ごめんなさいね。…残念です」

「加害の歴史はなかったことにできない。忘れない」
1月29日、行政代執行初日。東京ドーム5個分という巨大な公園は完全に閉鎖されました。フェンスで囲まれ、中が見えないよう目張りまでされていました。

メディアの取材は許されず、行政代執行は完全に非公開のもと行われました。

それでも、県民の中に反対の声があること、2週間にわたって公園が閉鎖される予定だったことから撤去作業は慎重に進められるものと考えていました。

撤去作業3日目。作業は予想を遙かに上回るペースで進んでいました。

 



日下部キャスター

「もう何もない。重機を使った作業が続けられています。追悼碑は跡形もありません。非常に速いペースで撤去作業が進んでいます。作業現場の近くに、一部、粉砕された石のようなものも見えますけども、全て大きなブルーシートに覆われています」

わずか5日間の作業で完全に撤去された追悼碑。いまは何もなかったかのように更地となっています。

ただ、あったもの。あったことをなかった事にはできないはずです。

追悼碑最後の日。取材していた私にとって忘れられない光景があります。

周辺に集まった人々がそれぞれの思いを付箋にたくし、追悼碑に貼ったのです。

「忘れません。子ども達に伝えます」 「加害の歴史はなかったことにできない。忘れない」 「これからは自分が記憶し反省し、友好を進めていきます!!守れなくてごめんなさい」

人々が心に刻んだ追悼碑への思い。誰にも取り去ることは出来ません。