25年10月、北海道の小樽高等商業学校での軍事教練野外演習では、大震災後に社会主義者が朝鮮人を扇動し暴動を起こしたことを想定し、朝鮮人団体などに問題視された。29年3月には長崎県の諫早高等女学校で天皇・皇后の写真が紛失し、犯人の候補として朝鮮人が真っ先に挙げられた。

 

 

 1923年の関東大震災直後の朝鮮人虐殺につながった流言はなぜ広がり、その後、どんな影響を及ぼしたか。国立歴史民俗博物館研究部の樋浦郷子准教授(51)が、震災前後の新聞記事を分析した論文を発表した。能登半島地震でもネット上に偽情報が流れており、今日的課題を投げかける内容になっている。
 

1916年に完成した戸祭配水場の配水池。関東大震災では「水道に毒」との流言が流れた=2023年8月29日午前10時17分、宇都宮市中戸祭町、中村尚徳撮影

 樋浦さんは2015年の論文で、栃木県内で広がった流言を調べた。大きな被害がなく戒厳令が敷かれていなかった地域でも、流言に刺激された人たちによる朝鮮人虐殺が日常の延長で起きたことを指摘した。さらに、昨年12月に刊行された法政大学大原社会問題研究所の「関東大震災100年」特集に地域や時間軸を広げた論文を寄せた。

 まず、震災前の1年間、1922年9月1日から23年8月31日までの東京朝日新聞を調べた。韓国併合から13年後の当時、10万人超の朝鮮人が炭鉱や土木建設工事など危険性の高い仕事に従事していたといい、日本人との対立や騒ぎ、殺人、乱暴など朝鮮人が絡む事件を例示した。

 それらの見出しは、当時の朝鮮人への蔑称だった「鮮人」に「怪」「不逞(ふてい)」といった形容をかぶせた。大きな事件が起きると「犯人は鮮人か」「嫌疑の怪鮮人」と犯人を朝鮮人と臆測する記事を根拠を示さず報じていた。

 樋浦さんは、1918年からのシベリア出兵に伴う朝鮮国境でのパルチザンと日本兵らとの衝突、1919年に日本の植民地支配下の朝鮮で起きた3・1独立運動の報道などを挙げ、「自分たちにも危害が及ぶのではないかとの恐怖心が、日ごろの優越感に加わった。その後も頻繁に朝鮮人報道を目にして画一的な先入観が植えつけられた。大震災で急に異常事態になったわけではない」と指摘する。

 論文によると、23年9月7日、「流言浮説を流した者は10年以下の懲役などに処す」との勅令が出され、翌8日ごろから全国的に流言報道は減り始めた。25年5月23日、420人が亡くなった兵庫県・北但大震災では流言報道は見られなかった。樋浦さんは「北但大震災直前の治安維持法施行で、ものが言いにくい空気が生まれ始めたのを報道機関は敏感に感じ取った」とみる。ただ、関東大震災後の流言や朝鮮人虐殺の責任が、自警団や朝鮮人にあるとする報道はあっても、自らの報道姿勢を省みる例はほとんどなかったという。

 報道機関への規制や新聞社側の一定の自制はあったが、朝鮮人がらみの流言はなくならなかった。

25年10月、北海道の小樽高等商業学校での軍事教練野外演習では、大震災後に社会主義者が朝鮮人を扇動し暴動を起こしたことを想定し、朝鮮人団体などに問題視された。29年3月には長崎県の諫早高等女学校で天皇・皇后の写真が紛失し、犯人の候補として朝鮮人が真っ先に挙げられた。

 樋浦さんは「関東大震災から20年以上経った敗戦直後も、宇都宮では『朝鮮人が攻めてくる』『水に毒を入れた』といったうわさが流れたとの証言がある」と話す。

 そのうえで「SNS全盛の今日、検証されていない情報が、善意に基づき瞬く間に拡散する恐れがある。近年、貧しさにあえぐ人も増えており、簡単に外国人差別などに転化する素地はすでにできている」と警鐘を鳴らす。(中村尚徳)