田中正造は多くの人が知っている名前。しかし、その周りには名もなき人々の抵抗が田中正造を励ましたことも忘れてはいけい。虐げられながらも歯を食いしばっての戦いを私達の血にも流れていると信じたい。自由民権運動紆余曲折もありながら民衆の声が運動を盛り上げたのは間違いない。

 

急激な工業化が進んだ明治時代の公害問題として代表的な足尾鉱毒事件。田中正造の闘争はよく知られているが、故郷を追われた大多数の農民たちの記録は、ほとんど残っていない。鉱毒の溜池とするべく廃村にされた、悲劇の谷中村(現在の渡良瀬遊水地)の村長・茂呂近助のひ孫が、ファミリーヒストリーとともに日本近代史をたどる。※本稿は、津田正夫『百姓・町人・芸人の明治革命』(現代書館)の一部を抜粋・編集したものです。

● 歴史の影に葬られた家族の謎と 公害の背後に隠された物語

 



 どの教科書にもあるように足尾鉱毒事件は、殖産興業を進める明治政府の後押しで、古河市兵衛の足尾銅山開発による鉱毒ガス、汚染水などの有害物質によって渡良瀬川流域一帯の農・魚産物が死滅し、住民1000人以上が犠牲になった、日本最初の大規模“公害”である。
 鉱毒の“溜池”にするため、最下流にあった谷中村が強制買収・破壊され、住民は追い立てられた。民権家・田中正造はじめ、多くの知識人、学生、運動家たちが谷中村民の支援に駆けつけ、人命よりも鉱山を擁護する政府に抗議した。幕末に名主の家に生まれ、谷中村の村長を務めた茂呂近助も、この荒波に呑まれていった一人だった。

 明治33年(1900年)、流域住民による第四次「押出し(デモ)」に対し、川俣で待ち受けた警官隊は「このどん百姓!」とののしりながら棍棒を振りかざし、茂呂村長を含む100人あまりを逮捕し、兇徒聚集罪で裁判にかけた。政府や栃木県によるさまざまな策謀や廃村決議、ついには強制破壊によって、谷中村は潰される。

 近助は、田中正造の反対を押し切り、貧窮する村民17戸を率いて、極寒の北海道サロマの開拓に向かう。「新天地・北海道に新しい谷中村を再建しよう」と苦渋の決断をしたのだろうと推測するしかない。当時59歳という人生の終盤に、家族・親族に反対されながら再度立ち上がった気迫に圧倒される。

 恥ずかしいことながら、日本の近代がそのように展開していったことも、そこを生きてきた曽祖父母たちの辛酸も、先祖について語らなかった父母たちの想いについても、僕はまったく考えたことがなかったのだ。父母たちが舐めた苦難を知らなかったということが何よりの衝撃だった。

 よく考えれば谷中村の話題を避けていた母や、叔父・叔母の態度に“思い当たるフシ”がないわけではなかった。自分のうかつさが、強く強く悔やまれた。

 1991年(平成3年)春、田中正造の分骨を祀った旧谷中村(栃木県藤岡町)の「田中霊祠」での「正造生誕百五十年記念慰霊祭」に恐る恐る参加し、田中正造の秘書役だった島田宗三の三男・早苗さんの講演を聞いた。

 その後の集まりで、主催者から「裏切り者の子孫などと遠慮しないでいいですから、これからも気楽に参加してくださいね」と、妙に優しく慰められたのも衝撃的だった。“裏切り者?”近助や買収に応じた大多数の村人たちは、正造ら「正義派」から見れば、どうやら「売村派・裏切り者」と呼ばれてきたらしいのだ。

 曽祖父は“裏切り者”だったのだろうか?村長としてどんな役割を果たしたのだろうか?ほとんどの移住者は旧谷中村近辺への移住だったのに、近助たちはなぜ遠いサロマだったのか?北海道で何をしようとしたのか?僕の母や叔父・叔母たち、つまり近助の孫たちはなぜ近助を「疫病神」と呼んで嫌っていたのか?

 遅まきながら足尾鉱毒と谷中村事件について調べ始めると、謎は深まるばかりだった。検索すれば関連書は数百にもなる。しかしそれらは主として田中正造の“不屈で英雄的なたたかい”を中心にした抵抗運動、反政府闘争として語られ、正造の死亡で終わっていて、個々の村人の生活や家族、歴史に関するものはほとんどなかった。

 日本の近代史を支える古河銅山をめぐる複雑で多面的な大事件である。農省務大臣・榎本武揚や谷干城も視察に訪れたが、農民を守れずに辞職した。足尾鉱毒事件・谷中村事件が語られるときは、いつも「政府につくか農民につくか」、「田中正造の正義派か、村を出る売村派か」という政治的な評価がついて回り、ここに登場する人々は政治的に描かれ、具体的な個人の視点、生活の立場で記録されることはほとんどなかった。

足尾銅山と鉱毒反対運動の真実

国策と故郷の山河の狭間で村人は葛藤する

 古河市兵衛が経営する足尾銅山は、明治21年の英ジャーデン・マセソン商会との銅の全額買い取り契約によって大増産が始まった。明治16年に1000人あまりだった労働者は、明治23年には1万6000人になり、産出量は全国の4分の1となる。銅は輸出総額の10%を占め、有数の産銅国として産業革命と資本主義の成立に大きく貢献していったが、その頂点にあったのが足尾銅山だった。

 同じ明治23年8月の渡良瀬川大洪水で、鉱毒被害が一気に拡大した。坑道からの銅、硫酸銅など有毒物質を含む地下水が流出し、それに乗じて大量の鉱滓が川に棄てられた。さらに精錬の燃料として足尾の山林を乱伐したため、洪水は大規模化し、被害は渡良瀬川流域一帯から東京にまで広がった。冠水した稲は穂を出さず、桑は枯れ、健康被害が広がった。窮乏した人たちは税金も納めることができず、選挙権(国税15円以上)、公民権(同2円以上)を失い、税収のなくなった村々は破産し、死者は1000人を超えた。

 僕の母方・茂呂家は栃木県下宮村(後・谷中村)の名主だった。幕末に生まれた曽祖父・近助(嘉永5年・1852年)は、明治33年、最後の民選村長になり、近隣の名主たちとともに流域農民たちの先頭に立って、洪水対策、鉱毒被害の調査や、政府への鉱毒停止の請願運動に年中駆け回っていた。生活や仕事のことは家族や雇人に任せていたのだろう。

 こうした村民に寄り添い、ともに鉱毒被害にたたかったのが田中正造であることは、教科書などに書かれている通りだ。天保12年(1841年)下野国小中村(現・佐野市)の名主の家に生まれた正造は、維新後、自由民権結社「嚶鳴社」に所属し、『栃木新聞』(現『下野新聞』)の編集長になって国会開設を訴えた。民権運動を強権で弾圧した三島通庸県令と対立し、「加波山事件」で逮捕されるなど、燃え上がる自由民権運動の先頭に立った。県会議長を経て明治24年、衆議院議員になり鉱毒被害民の「押出し」を支援して国会で質問を重ねる。

 明治31年には2つの民党が「隈板内閣」を組織して、田中正造は“われわれの内閣”だと喜んだが、民権派の大きな期待を集めた内閣はすぐに内紛で瓦解した。この間の明治32年、正造は「足尾銅山鉱毒被害民救護請願書」を大隈に出すものの、政争の中で無視されて終わった。

 明治33年(1900年)2月13日、鉱毒反対運動の拠点・雲龍寺に集結した1万2000人ともいわれる流域住民「押出し」に対し、利根川べり・川俣(現・明和町)で待ち受けた警官隊は、一斉に捕縛にかかった。「川俣事件」である。曽祖父・近助も谷中村から唯一人捕まり、兇徒聚集罪で起訴される(後に無罪)。

 事件の二日後、田中正造は国会で有名な「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問」を行った。

「民を殺すは国家を殺すなり。法をないがしろにするは国家をないがしろにするなり。皆自ら国をこぼつ(打ち砕く)なり。財用をみだり民を殺し法を乱して而して亡びざる国なし。之をいかに」、と。

 山縣首相は「意味不明」と答弁を拒否した。

 政府は翌月、治安警察法を作って社会主義者や民衆を力づくで抑えにかかった。このあたりが明治国家が“専制国家になっていった分水嶺”かもしれない。正造は翌年議員を辞職。幸徳秋水に書いてもらった直訴状を、決死の覚悟で天皇の馬車に差し出したが、狂気扱いされただけだった。以降、正造は谷中村に住み込んで村人たちと闘い続ける。

民権政治家たちに見放されるなか

谷中村に残る判断は適切だったのか

 日露戦争に突き進む明治政府は次第に猛々しくなっていき、鉱毒問題を治水問題にすり替えて、谷中村を遊水地にすることを決め、明治39年ついに残った農家16戸を強制破壊した。村を追われた人たちは、同じ寺の檀家や神社の氏子同志で相談したり、あるいは遠い伝手を頼って、それぞれに開拓・移住先を探して村を出なくてはならなかった。

 自由民権の政治家たちはどこにいってしまったのか?山縣内閣の農商務大臣を務めたのは、あの坂本龍馬と海援隊で行動をともにした陸奥宗光だったが、今は息子・潤吉を足尾銅山の経営者・古河市兵衛の養子にしていた。『大阪毎日新聞』などで言論人として台頭した原敬は、福澤諭吉系の民権論者で初の“平民宰相”として期待されたが、古河鉱業の副社長に就き、谷中村に土地収用法を適用した閣僚になった。

 近助は鉱毒反対運動のため財産も使い果たし、活動資金を親類縁者に頼って回らざるをえなかった。こうした混乱の中、近助の長男・蔵一郎(祖父。明治9年生)が日清・日露戦争に駆り出されたことは、茂呂家には大きな打撃になった。

 明治27年(1894年)、蔵一郎が18歳で日清戦争に応召したときは、谷中村は鉱毒で困窮し、385戸の半分が税を収めることができず公民権停止に追い込まれていた。流域の他の村々の名主と一緒に、茂呂親子も洪水対策、鉱毒対策に駆け回っていたに違いない。鉱毒は激しくなるばかりだった。明治37年、28歳の蔵一郎は後ろ髪をひかれる思いで日露戦争に再度応召され、従軍中の旧満州から父・近助に対し、鉱毒事件に深入りしないよう忠告の手紙を出している。

「古語にも“恒産なければ恒心なし”とか、己に恒産を失し候ものが、徒に忠義立ていたし候は、己の苦労を増すばかりか世人の笑いを招くのみにこれあり候間、(中略)ツマラヌ他人事には当分手出しなされぬよう呉々祈り上げ候。陣中憂うるところ只、これのみ」。

 村に降りかかる鉱毒への抗議活動を「ツマラヌ他人事」と指摘して、処世第一にするよう諫言している。しかしすでにこの年、栃木県議会は秘密裏に谷中村買収を決め、近助は謀略的な事件で収監されてしまう。ついに明治39年、政府は土地収用法を適用して谷中村に残った人々の住居を強制的に破壊した。買収に応じなかった16戸と田中正造は、堤防にへばりついて抵抗を続けた。

 その後の16戸の闘いは多くの本や映画になっているが、警官のサーベルに威嚇され、正造に「裏切り者!」と呼ばれながら、村を追い出されていく大多数の農民たちの記録はあまりに少ない。祖父・蔵一郎が存命のうちに、これに気づいて聞いておけばよかった、との悔いは深い。