昨日6日の「琉球新報」1面のコラム「日曜の風」で作家の吉永みち子さんが、ホームレス歌人と呼ばれた公田耕一さんの短歌2首を紹介している。
 

「柔らかい時計を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ」
「哀しきは寿町といふ地名 長者町さへ隣にはあり」

 

公田耕一という名は、本名かペンネームかも定かではない。朝日の「歌壇」の掲載条件の住所や連絡先さえ分からず、連絡の呼びかけにも応答がなかったという。
 

2008年のリーマンショック後の派遣村やドヤ街を背景にした歌28首を残し、投稿も途切れた。
 

彼の歌をめぐって論議された「こちら側」と「あちら側」についても触れている。
「こちら側」は「勝ち組」とも「正規雇用」とも解することができるだろうが、その切り分けから言えば、この歌は「あちら側」の歌。
 

しかし、「あちら側」ではあるが、「こちら側から転落したあちら側」の人が詠んだと教養をうかがわせるところが、共感を呼ぶのか。
それとも「明日は我が身」の不安感の共有が、共感の元なのか。
 

前者は正に山頭火や尾崎放哉といった感じだ。ファン心理は、「こちら側」の安心・安全・安定を享受しながらもその代償である束縛からも逃れたいという「お得感」あふれるものだ。(山頭火や尾崎放哉の「転落」にはどこか嘘くさいところがある。自分自身の嘘くささかもしれない)
 

後者の心理は、複雑だろうが、吉永氏の飲食店で働く「息子」に言わせれば「もうこちら側もあちら側もないんだよ」となる。
 

派遣社員はまだ「外部の人」なのかもしれないが、正規社員と契約社員やパート雇用の人たちとの関係は、賃金や処遇のガラスの壁はあっても、一方向としてはもはやシームレスだ。
 

 

厚き絵の具の風景を裏返してじっと見つめる
戻らぬというこぼれしお湯を手ですくいみる