なんと菅原道真公がご存命中の頃から
道真公をお祀りしていた…

といわれる天満宮が、京都・南丹市にあります。

生きている頃からという意味で
「生身(いきみ)天満宮」というそうです。


(「生身(なまみ)」かと思ってた…)


拝殿は改修工事中でしたが
回り込んで本殿前でご挨拶できました。


こちらは少し変わった形式のお詣り方法で

「本殿の周りを時計回りに
 3周?まわってどうのこうの…」

と、

お賽銭箱に貼り付けた
小さな紙に書いてありました。

そうするとより正式なご挨拶となるようです。

なんでしょう…

これは知能のテストか
はたまた従順性のテストなのでしょうか?

あるいは、歴代宮司さまのどなたかが
「天啓」を受けて開始されて

それが各代で止めるにやめれず
惰性で続いているのかもしれません。

いずれにせよ
腑に落ちないのでパスさせていただきました。

解呪(かいしゅ)、です。

なぜなら以前の私なら
きっと喜んで従っていたでしょうから。

ところで
こちらの事だけでなく

朝早い時刻に神社に伺うと

たいてい地元の方が、毎日の日課のようにご挨拶されているシーンによく出くわすのですが

順番を待ちながら
それとなく観察していると

時折、非常に熱心な方がいて

懸命に「ご自身や家族の無難」を願う文言を唱えています。

「大難を小難に、小難を無難に…ブツブツ」
「どうか、どうか…」

一見、信心深い
素晴らしい行為かのように見えますし

大難を小難にまつり替えるのも
とても大切な事ですし、お気持ちも分かります。

が、そういう方を拝見すると

どうにも恐怖のエネルギーで
病的なまでに光が縮こまっているのです。

よく神経症の方が「何度もガスの元栓を締めたかを確認したがる」ようなフィーリングというか

そこには
人としての「大らかさ」は微塵もなく

もし邪魔しようものなら(絶対しませんが…)
噛みつかれるかもしれません。

しかし、噛みつこうという気持ちを
持たれるのははまだ健全で

もっと重症なケースになると

「邪魔してきた人様に対して、噛みつこうと思ってしまった自分を罰して」それを抑圧して

チッと思う心を押し込めて、無表情でもう一度始めから儀式をやり直すかもしれません。

もしそこでイライラしてしまったら、何か良くないバチが当たるかもと恐怖しているからです。

そして

ただただ形骸化された謎の動作と文言を
恐れの気持ちからひたすら繰り返し

人知を超えた、強力なモノにすがって
その日一日の心の平安を得る…

そして次の日には
再び平安を得にすがりに行く…

そうして、1年経ち、10年経ち、死ぬまで
毎日毎日、、。

恐怖は和らぐどころか

何かに依存することで
だんだん人は光を失い恐怖は増大します。

こうした場面に出くわす度に

なんだか
やるせない気持ちになるのを通り越して

ここまでくると
もはやギャグかとも思えてしまいます。

そんなもの「何かが起こる時は起こる」のだし
大きな目で見ればそれは恩恵なのだから

クソくらえ。

起こるものを自分が怖いからと遮断したら
歪みはどんどん溜まる一方です。

そんな自己中な「呪」など
笑い飛ばしてしまいましょう。

こうやって少しずつ、国家神道の「呪」は解けてゆくのかもしれません。

国家神道といえば…

出口王仁三郎と「大本教」は
近代の国家神道との間において

さまざまな鍵をもっていると思われています。

私も以前からずっと

亀岡城跡にある「大本教」の本部に
見学に伺ってみたいと考えていたのですが

(信徒ではない一般人にもオープンになっていると聞いていたので)

しかし私はこの日の朝
京都の亀岡駅前のホテルにいながら

その目と鼻の先にある「大本教」本部には
なぜか足が向かずにいたのでした。

そう、なぜか…。

「方便としての装置」である宗教も
こうやって解呪されてゆくのかもしれません。



ありがたく榊を頂戴してきました。




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