今回は少し過激です。

とても個人的な私なりの真実ですが、拒否反応が起こるかもしれません。

特に神職の方は、読まれると不快になる可能性がありますので、お読みにならないことを強くオススメします。

大丈夫だよ、という方のみ
自己責任でスクロールしてお進みください。







さてさて

「そういうことにしよう」と
全国の思想をなんとか纏めようとした

明治以降の政策としての「国家神道的なるモノ」は、近年すでにあちこちで綻びを見せてきて

もうそれも
いよいよもたなくなってきてる感じがします。


もちろん素晴らしい神職の方も
本当にたくさんいらっしゃいますし

私もその「国家神道的なるモノ」に
楽しくズップリ浸かっていた時期もありますから

そんなに大きな声では言えませんが

近頃
そういう職に就いていらっしゃる方の

発言内容のポリコレ感には閉口しています。

感謝しなさい。
こういう風に考えなさい。
こういう風に思っちゃ駄目です。

口答えをするな、疑問を持つな。

正義はこちら側にある。
なぜなら我らは神に仕えし者だから。

おとなしく言うことを聞きなさい。

なんというか…
まるわかり的な圧というか

狛犬の像にさえも
マスクを被せるメンタルというか

そういうフィーリングが

特にこの2年半の間で
目立つようになった気がします。

というより、ほんの少し前までは

それが当たり前というか
あまり気ならなかったのかもしれません。

まあ、神職の方がそう言うなら…
まあ、そうなんでしょう…的な

麻痺してたというか

今思えば
頭がぼんやりシビレてたというか…。

     

ところで
本当の「信仰心」とは何でしょう?

果たして、さまざまな神様が

疑問を持つな。
おとなしく言うことを聞きなさい。

と、圧をかけてくるでしょうか?

少なくとも私自身は

神様からそういう圧的な
メッセージをいただいた事は一度もなく

逆に、自分の思うままに生きてみよ
という励ましばかりだったような気がします。

      
では
圧をかけているのは誰でしょうか?
        

今までは
ダイレクトな神様的なエネルギーに

意図的に「国家神道的なるもの」が癒着して

一体化しているように
見せかけられていたものが

この時代の恩恵で
メリメリと剥がれて来たように思います。

神様から剥がれてみると…
それは単なるカルトだったことが分かります。

今はある特定のカルトで賑わっていますが

それをきっかけに

雪崩のようにあちこちに
クエスチョンの嵐が吹き荒れる事でしょう。

つるんと
神様的な権威から剥がれると

単なるポリコレ野郎がそこにいるだけです。

それはそれで楽しいのかもしれません。

さあ

「ぼんやりシビレ」はもうおしまい。

くっきりとした
シンプルで楽しい時代の幕開けです。

      

今日は暑いけど涼しいね〜。



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