(心こそ大切)
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〈「心こそ大切」の一生を〉
「各部代表者会議、1988年」
昨日、ある人と語り合った。御書全編をとおしての大聖人の仰せは、つまるところ何だろうかと。
その一つの結論として、まず「御本尊根本」ということである。妙法のみを純粋に唱え行じきっていくという「但南無妙法蓮華経」の一念である。
そして「ただ心こそ大切なれ」の御聖訓である。
これらが、もっとも要となるともいえるのではないかということになった。
とくに後者については、たとえ御本尊を受持し、題目を唱えていても、自身がいかなる信心の「心」であるのか。
広布へと向かう「心」なのかどうか。その奥底の「一念」が一切を決める。
幸・不幸、成仏・不成仏、また仏界の方向へ行くのか、苦悩の境涯へ向かうのかー すべては、わが一念の妙用であり、厳しき結果である。
この一事は、どれほど強調しても、しすぎることはない。
宇宙にも心法すなわち「心」がある。自身にも「心」がある。自身の信心の「心」が、宇宙にも通じていく。まことに心には不可思議な働きがある。
わがままな心、愚痴と文句の心、疑いの心、要領主義の心、慢心、増上慢の心などは、自他ともの不幸の因である。
それらにとらわれてしまっては、飛行機が濃霧の中をさまようようなものである。何一つ定かには見えない。善悪の基準もわからなくなる。自身のみならず、乗客ともいうべき眷属も不幸に堕としてしまう。
また、「慢」の心とは、たとえて言えば、暴れ馬が止まらないで狂ったかのように、心がグルグルと駆けまわっていて、自分で自分がわからなくなっているようなものだ。
要するに、人間として正常ではない。また、自分が思っているのとは正反対に、少しも偉くはない。それどころか、慢心と増上慢の人は、仏法上、いちばん危険な人物である。
反対に、友を思う真心、主義主張に生きる信念の心、広布への使命を果たそうと戦う責任の心、仏子を守り、尽くしきっていこうという心、感謝と報恩と歓喜の心は、自身のみならず、一家も一族も、子孫末代まで、無限に福徳を開いていく。
諸天善神が守りに守っていく。まっすぐ成仏への軌道を進めてくれる。
ゆえに「心こそ大切なれ」との仰せを、強く深く胸に刻んでの一生であっていただきたい。