(真の幸福とは?)
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〈自由なる人生とは〉 2
環境も大事である。しかし環境がすべてであり、絶対なのではない。戸田先生は、牢という、この世でもっとも不自由な環境のなかで、永遠の自由の境涯を獲得された。
皆さま方のなかにも、お姑さんしばられ(笑い)、子どもにまとわりつかれ(笑い)、主人や家事、仕事・・・すべてが、にっくき鉄の鎖に見えてくる(笑い)経験をおもちの方も少なくないと思う。
また広布の活動についても、いつしか手足をしばられているような、重苦しい心になることもあるかもしれない。
”ああ、なんて私は不自由なのか”(笑い)。”私は夫や子どもも奴隷ではない”(笑い)等々ー。
しかし、気楽そうに見える人をうらやみ、そうしたところに行っても、真の自由はない。
”心の中の自由”ー それは決して、「ものは考えよう」などといった観念的次元にとどまるものであってはならない。
「御義口伝(おんぎくでん、相伝書)」には「我らが一念の妄心の外に仏心なし・・・ 」
ー われわれ凡夫の迷いの生命を離れて、他のどこにも仏の生命はない。煩悩や宿業、苦悩に縛られた九界の生死も、妙法に照らされるとき、
本来ありのままの真実の姿を顕(あらわ)し、「自在」の生死となる。すなわち南無妙法蓮華経と唱えることによって、自由自在の生命活動となるー との御聖訓である。
不自由に見える九界の現実の生活を離れて、どこか別世界に自由があるのではない。
現実から逃避しても、他のどこにも真の自由はない。
逃げだすといっても、宇宙から逃げだすわけにはいかない。何より自分の生命の外へ逃げだすことは不可能である。
その自分の生命が、宿命にしばられ、自身の弱さにとらわれ、苦しみに負け、誤った思想につなぎとめられているとしたら、いずこにいっても自由はない。
生命をしばりつける迷いの”縛(ばく:しばり)”を断ち切る剣こそ、妙法の実践である。
仏界の境涯にこそ、真実の自由がある。わが信心の一念どおりに、自在に人生を開きゆく”力”と”智慧”に満ちてくる。
妙法こそ事実のうえに、真の「自由」を実現する無上の大法なのである。