20年ほど前、カクマニの父は「がんの多発転移」で亡くなった。

発見のきっかけは排尿障害と黄疸だった。

 

一回目の入院では「原発巣が不明で胆管がガンのため、詰まってしまっている。

他の病気のため手術不能で余命半年」と医師に伝えられた。

 

ステントを入れて半年後、再び黄疸が現れて入院した。

カクマニと連れ合いは最初の入院から亡くなるまで

二人で通勤・退勤途中の毎日入院中の父の世話をした。

 

母は二度目の入院の時の、父の意識がはっきりしていた頃までは

毎日見舞いに来ていた。

しかし父の意識が曖昧になってきた頃、

母はカクマニに言った。「お父さんに(対して)気持ちがなくなった」。

 

そして母は病院に来たとしても、病室に入らず廊下の長椅子で過ごし、

間もなく父は亡くなった。

 

カクマニは今も母の言葉の真意を理解できないでいる。

 

そしていつの頃からか、母が病院の廊下で言ったその時の

冷たい顔と言葉を突然思い出すようになった。

 

食事中、読書中、買い物中…脈絡もなく、

母が「お父さんに気持ちがなくなった」と言った時の

情景や言葉が頭に表れて、

その瞬間から負の連想が始まるようになった。

 

「子ども食堂」の食品の賞味・消費期限が迫っているので、

寄付金と引き換えに食品を引き受けて欲しいと誘われた。

 

一瞬、モヤッとしたが、皆と同じく一口分ほぼワンコインを寄付して

重い袋を受け取った。

中身は企業などからの寄付の健康食品、調味料や非常食その他で総額7,000円くらいびっくり

それがほぼワンコインと引き換え=購入??だった。

 

寄付した企業等と子ども食堂側とで需給バランスが悪かったのだろう、

でも健康食品・・・モヤモヤショボーン

 

それで思い出したのが、途上国の露店に並んだWFPの粉ミルク、

役人個人に渡ったODAのトラクター、

大学の音楽室で眠るODAの管弦打楽器=オーケストラ1つ分、

その他多くを直接見てきたことを。

あまり必要ではない食品を寄付されて、持て余した子ども食堂と

少し似ている、と思った。

 

同じことを介護でしてこなかった?

母から見れば、余計なお世話だったとしても、

時にはわざと世間から見える場所で介助しなかったかな?

実は人目につく所で、ちょっと不要な介助をしたことはある。

 

介助する側は介助される側にも世間にも気を遣う・・・。

 

そうか、一見不要に見える寄付でもした方がいい場合もありそうだ。

受け取ってあげる、という気遣いもありなんだろうな。

ネット検索に照らし合わせて、素人目にも

明らかなモンドール病、と断言できる状態を

腋窩リンパ廓清から2か月ほど後に経験した。

それが最初だった。

 

腕の内側に脇の下辺りからひじの近くにかけて、

筋なのか血管なのか一本の5ミリほどの管状のものが出現した。

乳がんで全摘とリンパ切除した方によく見られるそうだ。

 

カクマニも腋窩の他に大胸筋の下のリンパ腺も取った。

腕には筋が浮き出て腕を前に伸ばし、あるいは上に伸ばすと、

腕や胸が突っ張り、痛くてその動作をするのは困難だった。

しかし、いつの間にか治った。

そのモンドール病を思い出して母の通所を優先させたのだった。

しかし、今も自分の温泉リハビリを優先させて私の定期検査を

先送りさせた母の価値観には強烈な不信感を持っている。

 

結局、いつの間にか胸の突っ張りや痛みは消えて、

2度目のモンドール病(と思われるもの)は終わった。

 

さて、胸の突っ張り感や痛みを医師には報告したが、

末梢神経障害やビタミン欠乏症のコードが

患者カードに記載された。

医師はモンドールの「モ」さえ言わなかったが、だからといって

不信感は感じていない。

皮膚科じゃあまり経験しない病気のようだし、

医師が万能だとは思っていないからだ。

 

 

一昨年の初冬、通っている大学病院がある町で

大規模コロナクラスターが発生した。

一気に多数の感染者が発生し、その数にカクマニは目を疑った。

 

母が通う温泉付き介護施設では、本人・家族が

その町に出入りしたら、通所を2週間休むように、

と文書をよこした。

ちょうどカクマニの造影CTの数日前だった。

 

母は「あんたが〇〇大学(病院)に行けば、

お母さんは△△(温泉付き施設)に行けないの?」と言い放ち、

じっと私から目を離さなかった。

私のガンより自分の温泉付きリハビリを優先させたのだ。

 

施設に電話で確認すると○○大学病院はコロナ患者を扱うので

大学病院に行ったら母の通所を2週間休ませてください、との

ことだった(それって別の意味で大問題だ)。

母の態度も施設の発言も信じられなかった。

しかしこれも私のコロナ禍だ。

 

その頃は胸が突っ張って痛くて腕を肩より上にあげられず、

胸には一直線に圧痛があり、1日出も早く検査を

受けたいくらいだった。

 

結局カクマニはメラノーマの定期検査を2か月遅らせて、

母の通所を選択した。

転移の恐れ・不安を押し殺して

「モンドール病」を期待して「母の 温泉を優先」したのだ。

 

知り合いで、医師のお連れ合いから電話があった。

 

医師である旦那さんを介護中で、彼は重い病気で闘病中。

そのためか、介助する側の立場からの話題が多かった。

 

彼女が話した要点はこうだ。

介助される側は病人にしろ老人にしろ「弱者」だ。

そして法律でも社会的にも権利は守られている。

 

一方介助する側に対しては

「我慢を重ねて」

「誰もが認める献身的性」を強制されて、

日々の介護に「弱音」「愚痴」は

許されない。

 

もしカクマニがたった一人で

介助せざるを得ないなら、

カクマニ自身のために、

あらゆる制度を利用しろ。

 

そして電話が終わった。

 

彼女もまた、介助側が責められることを

しこたま経験してきたのだろうか。

 

1月24日、造影CTを受けた。

31日の夜まで病院から連絡がなかったので転移なし、ということだ。

 

カクマニは、メラノーマのステージ3の診断を大した感慨もなく淡々と受け止めた。

もしかしたら極々身近の人たちとのガンによる別れに、

その診断から闘病、葬儀、延々と続く法事まで

深くかかわってきたせいかもしれない。

 

手術後にもカクマニは「自分は転移も再発もしない」、という無根拠の

漠然とした確信めいたものを感じてきた。

 

カクマニは子供の頃から「諦めた」とか「挫折した」という記憶があまりない。

「必死に頑張らなかった」、

「高みを目指さなかった」、

「周りからの援助に気がついていない」、ということかもしれない。

 

失敗に気付いていない、

事態の重大さに気付けない、

自分は大丈夫、という能天気な人間だから転移しない、

という無根拠の確信を持てるのかもしれない。

 

 

カクマニの左目の端に時々金色の光や黒い影が横切ります。

1か月に1度くらい?です。

右側は滅多に起きませんが稀に銀色の光が横切ります。年に1~2度?

何かが、スーッと横切った感じです。

これが目の病気なのか視神経に問題があるかはわかりません。

 

さて、本題の閃輝暗点。

不整脈のカテーテル術(アブレーション)をした後に

何度も経験したことがあります(アブレーションを2回受けました)。

景色が異常にギラギラ眩しく見えたり、銀色に輝く三日月形ののこぎり状のものが

右目の端でゆっくり回転してしばらくすると消えたりします。

その後に訪れるという頭痛も吐き気は起きませんでした(ウィキペディアがうまく説明してくれています)。

心臓のカテーテル術の合併症のようですが、いつの間にか間遠くなり、

現在は滅多に起きなくなりました。

 

ついでの話です。不整脈(発作性上室性頻拍)の発作の時、

ATPの静注で心静止状態(心停止の種類の一つだそうです)にして

心拍をリセットして拍動を正常に戻す、という治療を3回受けました。

心臓を止めるわけです。

ATPとか不整脈について後日、ブログに載せます。

カクマニの妻は亡くなり、子供がないので完全一人暮らしです。

母は存命ですが、現在は妹が主に面倒を見ています。

 

さて、カクマニのメラノーマが進行期だったことを知ってから、

主に仕事や趣味に関係したコピーやノート・メモや

手紙類と衣類の処分を始めました。

 

一昨年からは古紙回収ステーションに出し始め、

ポイントカードによれば120kgを持ち込みました。

業者さんなどに持ち込んだ分を入れると

少なくとも500kgほど処分したと思います。

 

衣類は役所のリユースコーナーに持って行っています。

 

使用済み切手は4リットルボトル2杯分をユニセフに持っていきました。

 

処分の途中で、「紙は生きてきた記録」ということに気がつきました。

シュレッダーにかける前にどうしても目を通したくなったものもありますが、

思い出も捨てることにしました。

共通の思い出を語る相手もいないし、忘れていることは思い出さずに

そっとしておくのが自然だし、身軽になると考えたからです。

 

ただ、家内が残した手紙の処分をするたびに

亡くなった家内をこの手で縁を切っていくような気がしてなりませんでした。

モヤモヤした気分になります。

それでも、段ボールや本棚から紙類・物・衣類が減っていくと

少しの安堵感がフッと沸いてきます。

月曜に大学病院で造影CTを撮ったんですが、

対応が必要な時のみ電話、ということにしています。

結果を聞きに行って、治療のため病院を訪れる人の時間を

奪うのは絶対に嫌だし。

 

木曜の今夜まで電話がなければ転移なし…です、多分。

月・金が腫瘍皮膚科の外来の日なので、

勝手に木曜をメルクマールにしています。

 

毎回、木曜は夜まで落ち着きません。

「Sous les pavés, la plage」は68年、パリ5月革命のスローガンの一つで、

直訳だと石畳の下にある砂浜、でしょうか。

ウイキペディアのフランス語版を参考に意味を調べてみました。

 

スローガン作者Bernard Cousinは、「機動隊の催涙弾の前途方に暮れていた時、

(投石に使っていた)石畳の下の、石を安定させるための砂に

子供の頃の砂浜遊んだ自由な楽しみを思った」のだそうです。

石畳の下には、実際に砂が広がっているんですね~。

 

ところで、フランス国歌の一節に、暴君に対して「自由のために武器をとって戦え」とあります。

この部分は、ド・ゴールの圧政に対して、石畳を武器として自由を求めて戦った

パリ5月革命の主役のクザンたち市民・労働者のスローガンと一致している気がしました。

 

また、ムスタキの「叫びの歌(chanson cri)」の32行目に「Ceux qui cherchent la plage au-dessous des pavés(石畳の下の砂浜を探す人)」という一節を見つけました。

 

クザンがフランス国歌を、ムスタキがクザンを意識したのかはわかりません。

クザンは石ではなく砂を見て情緒的な思い出に浸っただけかもしれません。

 

でも石畳の生活経験がほとんどない私なら、砂浜での思い出に「石畳の下の砂浜」表現はしないだろうと思います。

思いもよらない表現を目にして情景を想像したり、由来を調べる。

それが外国語を学ぶ楽しみの一つでもあります。

 

※時々、フランス語の記事を書きますが、学校でフランス語を学んだわけではありません。

敢えて言えば2か月間、かつてフランスの首都だったVichyでわずか2か月だったか?

ホームステイしながら学校に通ったことがあるだけです。

訳を載せてもそれは違っていることもあると思います、

間違えていたらすみません  m(__)m