猪熊 功 の自決を介錯した男 | 三島由紀夫と森田必勝のブログ

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2001年9月28日午後7時35分、東海建設社長室でそれは決行された。

東海建設代表取締役であり元オリンピック金メダリスト猪熊 功 の自決

であった。

秘書の井上 斌 はそれを見届け、打ち合わせ通りの手順をすすめた。

「よし、今ならできる」低い叫び声とともに、猪熊は脇差を取り上げ

一気に己の首に突き込んだ。 

瞬間、卓上の鏡に血が飛んだ・・・・・

が猪熊の太い首は一突きでは切れなかった。



「まだ まだっ、切れてないっ」かねてからの打ち合わせ通り、秘書の

井上は大声で気合いをかけた。 猪熊はもう一度 血まみれの首に刀

突きたてた。今度は切っ先が、うなじまで突き抜けた。


これが二人で三週間近く練習した方法であり、そこで一気に引き下ろ

せば頸動脈が切れ、数秒で失神するはずであった。

がしかし、目の前に展開された現実はほんの少し狂いがあった。



血潮は天井に向けて噴き上がらず、大量の血がパーッと床に流れ

出した。刀は頸動脈の外側の頸静脈を切ったらしい。

失血死まで静脈では時間がかかる。



一、二分すると猪熊は頭をソファーの背もたれに預けて失神したが、

息はある。井上はただ見守り続けるしかやることは何もない。

時間だけが過ぎていく。やがて45分が過ぎようとする頃、初めて椅子

から立ち上がり猪熊の腕や額に手を添えてみた。

さすがにもうかなり冷たくなっているが、まだ息は絶えていない。



やはり俺が止めを刺さなくてはいけないのか・・・。

血糊がベッタリついた この脇差でするか、用意していた柳刃包丁で

やるか・・・ と悩んでいるうちに、猪熊の息がフッと止まったのが

わかった。時計はちょうど8時30分をさしていた。

井上の人生のなかでいちばん長い50分が過ぎたのであった。



それから、念の為さらに30分待った。完璧に死なせなければならない、

と井上の頭のなかは、猪熊と交わした男の約束を果たすという思いだ

けだった。

そして、やがて 打ち合わせ通りに猪熊の長男、総務部長、弁護士、

警察へとその順序で無感情のまま電話をかけた。





井上 斌 は昭和21年1月5日、北京にて父・俊典と母・照子のもとに

生を享けた。

慶応義塾の中等部より柔道を始め、三年生の時は主将を務め、

そこそこ期待されて高等部へ進学する。強豪校のなかで柔道づけの

毎日であったが、高校三年の全国大会予選で思わぬ敗退をし、

何となく柔道に対する情熱も薄れ、己の限界を感じ始めていた頃、

すでに出会いのあった早稲田大学の富木謙治師より合気道修行へ

の誘いがあった。



慶応義塾生でありながら、早稲田の道場で合気道の稽古をするという

大学生活が始まり、四年生の時は早稲田大学合気道部のコーチに

就任した。


昭和43年8月に英国合気道協会より指導員として召集されロンドンへ

出発した。

昭和46年12月にその任務を終え、帰国し住友不動産に入社。



転勤先のハワイカントリークラブで猪熊氏と出会い、お互い武道家として

意気に感ずるとこあり、その縁で平成元年に東海建設へスカウトされる。

猪熊が社長に就任と同時に社長室長、秘書となり固い信頼関係を築く。

現在、エス・ユウ代表取締役。毎年1回 英国で合気道講習会を開催。

英国合気道協会師範として活躍中。




「猪熊の自刃はさまざまな問題を含んでいる」 と井上は言う。


あの当時の中小の建設会社の悲劇であり、銀行を始めとする金融機関

の身勝手さ (資金の融資の有無云々ではない。あたかも融資するような

素振り時間を限りなく引き延ばしたやり口を責めているのである)


また、信じていた東海大学がなぜ猪熊を見殺しにしたのか等である、と。


また、全社員に最後の給与も退職金も満額支払うことができた、

ということは猪熊にとって不幸中の幸いだったであろう、とも言った。



              「勝負あり 猪熊 功 の光と陰」 より