コンプレックスを武器にした猿腕&スワンネック変形指PIANIST NAMUKAのBLOG -4ページ目

コンプレックスを武器にした猿腕&スワンネック変形指PIANIST NAMUKAのBLOG

インフルエンサーなどに楽曲提供(HAPPYちゃん他) スワンネック変形指&猿腕ピアニスト。アジア国際芸術Fes最優秀賞、北関東ピアノコンクール1位朝日新聞社賞、他多数受賞。フジコヘミング氏のリハーサルピアニストや、漁師ピアニストの徳永さんにラカンパネラを指導。

前投稿の続。
【言葉になる前の自分を感じることがなぜ?始まりを感じることがなぜ自己認識を変える?」

言葉になる前の自分を感じること。それは、自分を定義する前の状態に戻ることだ。私たちは、自分のことを言葉で理解している。「私はこういう人間だ」と、言葉で枠を作る。でも、その枠は、過去の経験や誰かの評価によって作られたものだ。その枠が、自分を縛っている。

自己認識の多くは、無意識領域にある。普段は意識していないけれど、行動や選択の根底に存在している。気づかないまま、その自己認識に従って生きている。だからこそ、無意識にある自己認識を感じることが変わるための鍵になる。

感覚は、言葉よりも前にある。思考が生まれる前の、もっと原始的な自分だ。感覚を感じることは、その枠の外に触れること。つまり、自分を定義する前の自分に戻ることだ。その状態で感じたものは、言葉に縛られていない。だから、新しい認識が入ってくる余地が生まれる。

──では、なぜ「始まり」を感じることが自己認識を変えるのか。

ひとつの自己認識は、いくつもの始まりから作られる

例えば、誰かに「あなたはいつも遅刻する人だ」と言われたとする。その言葉を何度も聞くうちに、「自分は遅刻する人間だ」という認識ができる。でも、最初に遅刻した瞬間には、まだその言葉はなかった。ただ「やってしまった」という感覚があった。その感覚が、周りの言葉や解釈を経て、認識になった。そしてその認識は無意識に根付き、行動を縛るようになる。

私自身の例で言えば、父が自死したとき、私は父を救えなかった。死に方は否定し隠さなければならない。
その感覚が、時間とともにいくつもの認識に変わっていった。「父を否定したくないのに、それを感じる生き方」。「救えなかった自分は、父のようにお金で苦しめられなければならない」。「助けてもらえないと感じる人生を生きなければならない」。──それらの認識は、すべて一つの始まりから生まれている。そして無意識に、私の行動や選択を制限してきた。

ではなぜ始まりを感じると、自己認識が変わるのか

始まりの感覚には、まだ言葉がない。言葉がないから、自分を縛る枠もない。その状態で感覚を感じきると、後から作られた自己認識というラベルがただの後付けだったとわかる。

私の場合、「救えなかった自分は父のように苦しめられなければならない人生」という認識がある。
でも、最初の瞬間には、まだその言葉はなかった。ただ「救えなかった」という無力感と「どうして」という悔しさがあった。その感覚が、時間とともに認識に変わった。始まりの感覚に戻るとは、その無力感と悔しさを感じることだ。後から貼られたラベルを手放して、最初の感覚に戻る。

「始まりを感じることで変わること」

始まりの感覚を感じきると、後から作られた認識が手放される。その空いた場所に、新しい自己認識が入ってくる。「救えなかった自分は苦しめられなければならない」が手放されると、「救えなかった事実は変わらないが、今の私は救うことを選べる」という新しい認識が入る。
父を救えなかったからこそ、今度は誰かを救う側に立つことができる。その選択が、新しい自分を作る。

自己認識は変えられる。"始まりの感覚"を感じることで変えられる。言葉になる前の自分に戻ることで、言葉に縛られない自分に出会う。その出会いが、無意識にある自己認識を変えることができるのである。

苦しみを感じる自己認識がある。「自分は被害者だ」という認識だ。自分は傷つけられた。自分は可哀想だ。自分は何もできなかった。そういう認識が、苦しみを生む。それを変えれば、苦しみは軽くなる。

自己認識は、人生の土台だ。"自分が自分をどう見るか"が、行動や選択のすべてに影響する。自分は価値がないと思えば、その通りに生きるし、自分には可能性があると思えば、その通りに生きる。だからこそ、苦しみを生む自己認識は変えるべきだなと思う。

そして自己認識は多面的だ。例えば私は「感じることを手放さない人間」であり、「標準ではないからこそ生まれた音を届ける者」であり、「父の死を語り続ける者」であり、「複雑性PTSDと向き合いながらも前に進む者」。これらはすべて、私の自己認識の一部だ。それらは同時に存在していて、私の多面性を形作っている。

では被害者意識がなぜ苦しみになるのか。それは、自分を「無力」に固定するからだ。
過去に何かがあった。それが今の自分を決めている。そう思うと、自分が変われる可能性を閉じてしまう。被害者意識は、自分を過去に縛るのだ。

その裏には、「可哀想だったね」と気にかけてもらいたいという願いがあることもある。誰かに認めてほしい。共感してほしい。その願いが、無意識に被害者意識を強める。でも、それでは本当に自分は変わらない。気にかけてもらうことに依存すると、自分で自分を認められなくなるのだ。

でも頭で「被害者意識をやめよう」と思っても、なかなか変われない。それは、被害者意識が体に染みついているからだ。感じ方が、体に刻まれている。私も、父の死を思い出すたびにみぞおちが縮み、母の言葉を思い出すたびに喉が詰まった。その感覚を変えなければ、認識は変わらないとわかった。

なぜ感覚を感じると自己認識が変わるのか。

それは、感覚が「言葉になる前の自分」だからだ。 

思考は言葉でできている。
過去の経験や誰かの言葉が、思考として固まっている。
でも感覚はそれよりもっと深い。
言葉になる前の、生の情報なのである。
感覚を感じることは、思考の前にある自分に触れること。言葉で作られた自己認識の“前”に戻ること。その感覚を感じきると、思考が手放される。思考が手放されると、自己認識も変わっていく。

では、どうすれば被害者意識を手放せるのか。それは体で感じることだ。みぞおちの縮み、喉の詰まり、胸の重さ。その感覚を、ただ感じる。
理由を考えない。誰のせいかも考えない。ただ、そこにある感覚を感じる。その繰り返しで、私は変わってきたなと感じる。

かつては「自分は被害者だ」という認識が私を縛っていた。誰かに気にかけてもらうことでしか、自分の存在を確認できなかった。でも今は「自分は感じることを手放さない人間だ」という認識が新しい軸になった。誰かに気にかけてもらわなくても、以前に比べれば自分で自分を認められる。父の死も、指の形も、否定も。それらはもう「被害者」の証ではなく、「私」を形作った一部だなと感じている。

そう在らないためには、感じるということをやめないことだ。

苦しみを感じる自己認識が湧いたとき、頭で考えずに体で感じる。感じることで、認識は固定されずに流れていく。認識は変えられる。感じることで変えられるのです。

───もし今、自分に希望を持てずにいるなら、自分の体を感じてみてほしい。
みぞおちのあたりはどうか。呼吸はどうか。
その感覚を、"ただ"感じる。ぜひ苦しみを感じる自己認識は変えてみてほしい。あなたも感じることで変わっていける。







自分を認めるとは、自分のすべてを肯定することではない。

完璧な自分を認めることでも、理想の自分を認めることでもない。今の自分。不完全な自分。うまくいかない自分。それらも含めて、そのままを受け入れることだ。

そして自分を認めることは、自分の感情を否定しないことである。

怒りを感じたとき、「怒ってはいけない」と自分を責めない。
悲しみを感じたとき、「悲しんでいても仕方ない」と自分を抑え込まない。嫉妬を感じたとき、「嫉妬する自分は嫌だ」と自分を拒絶しない。

感じたことを、そのまま感じる。それが、自分を認めることの始まりなのである。

そして自分を認めることは、自分の弱さを隠さないことだ。

できないことがある。怖いことがある。逃げ出したいと思うこともある。
それらを認めることで、初めて自分と向き合える。
弱さを認めることは、恥ずかしいことではない。
むしろ、弱さを認められることが、本当の強さなのである。

それから自分を認めることは、過去の自分を責めないことだ。

あのとき、こうすればよかった。あの選択は間違っていた。そう思うことがある。でも、あのときの自分は、あれが精一杯だった。それでいい。過去の自分を責めるのではなく、その選択をした自分を認める。その上で、今からどうするかを考える。

そして自分を認めることは、
未来の自分に期待しすぎないことだ。

「こうならなければ」という理想を掲げすぎると、今の自分が認められなくなる。未来の自分も、今の自分も、同じ人間だ。
完璧な未来の自分を想像するより、今の自分を認めることのほうが大事なのである。

それから自分を認めることは、自分を大切にすることだ。

自分を認められなければ、自分を大事にできない。
自分を大事にできなければ、他人も大事にできない。
自分を認めることは、自分との関係を築くこと。
そして、その関係が、他人との関係の土台になる。

そして自分を認めることは、自分の存在を許すことだ。

何かをしなければ価値がないわけではない。
何かを成し遂げなければ意味がないわけではない。
ただ、そこにいるだけで、十分だ。
その感覚を、自分に与えること。それが、自分を認めるということなのである。

そして自分を認めることができたとき、初めて人は自由になる。

他人の評価に振り回されず、自分の感覚を信じられる。
自分を偽らず、自分らしく生きられる。自分を認めることは、自分を生きるということなのです。