先日、知人キーンちゃんと臨済宗の某お寺に坐禅をしに行った。


キーンちゃんは健康や日本文化に深い知見のある人で、全国津々浦々で様々な体験に勤しんでいる。

例えば、護摩行、お遍路、太陽礼拝、宿坊、滝行、祈祷、茶道、写経、神社仏閣の催事など公私共に色々なところにお呼ばれしているすごい人である。


今回は特別に、坐禅以外にも色々な禅体験をさせてもらい、最後に坐禅を組んだ。

私はいまだに坐禅によって心や頭を無にすることはできないけれど、住職から、無にすることはできないのだから呼吸に集中しなさい、と教えを受けた。





坐禅終了後、キーンちゃんが住職にこう言った。

「私の兄は毎日瞑想をするんですが、この前、第3の目が開いたと言っていました」


第3の目というのは、ヨガやスピリチュアルに興味のある方ならご存知の、〝サードアイ〟と呼ばれるもので、これが開くと目に見えないものや感受性、洞察力が高まると言われている。


住職はこの話を受け、首を振りながら言った。


確かに、坐禅を通してそういう体験をする通過点のような時期がある。

しかしそれは、あまりよろしくない状態で、そのことに囚われて一喜一憂してはいけない。


坐禅をした後に、たまに緑がものすごく鮮明に見えるという人がいらっしゃる。

坐禅というのは本来心を鎮めるための修行である。

坐禅によって瞑想状態になり、それによって得られるものは副産物であって、修行僧はそれを目的に坐禅を組むわけではない、という説明だった。


私はこの話を聞いて思い出した。

別の日に知人レキシ君(めちゃくちゃ歴史に詳しい超真面目で誠実なセレブ)と一緒に坐禅をした際に、初めて坐禅を体験したレキシ君は、坐禅の後、

「ねえねえ!見て!葉っぱとか服の赤い色がやたら鮮やかに見えない!?」と興奮して言っていた。


私には葉っぱや着ている服の色が通常の状態にしか見えなかったので、「へ??何言ってんの?」と言って終わらせてしまったが、

そうか、その事例に当てはまる人だったのか。。。と今さらながらレキシ君のすごさに想いを馳せた。



キーンちゃんは、それ以上何も言えなかった。



その副産物を目的に坐禅を組む我々は、仏門に入り何十年も修行をする僧侶の前ではとても浅はかにみえた。

煩悩を消すための坐禅によって、何かを得ようとする欲が浮き彫りになり、なんとも滑稽な姿がさらけ出された瞬間だった。



私は元々仏教にものすごく興味があり、

仏やお経が小さな頃から大好きだったが

ますます仏の道に惹かれる1日となった。


お寺の僧侶もそれぞれ個性があり、

同じ宗教にも関わらず色んな体験や話が聞ける。


つくづく思う、行けば行くほど、やればやるほど、聞けば聞くほど、なんておもしろい世界なんだろう。と。

もっともっとのめり込んでいってみたい。


おしまい。