
定禅寺ストリートジャスフェスティバルや先日開催されたゴスペルフェスティバルの会場となった元鍛冶丁公園は、立派な屋根付きステージを備えています。

夜の歓楽街国分町通りのすぐ横で、隣は交番。
さて、この元鍛冶丁という地名。鍛冶衆=町民のまちだから「町」のはずなのに、侍のまちを指す「丁」が付くのはなぜ?
私の疑問は、鍛冶町の由来を調べることで、一気に解決しました。
伊達政宗が寛永年間(1624年~1644年)の初め頃に鍛冶職人を配置=鍛冶町ができた
ほどなく鍛冶職人たちは城下の南北に移される=南鍛冶町・北鍛冶町ができた
最初の鍛冶町の跡地には侍屋敷が造られた=元鍛冶丁(元が鍛冶の町だったのと、侍のまちだからと丁をつけた)
簡単に言うとそういうことのようです。
南北に移されたという鍛冶町がどんなところか行ってきました。
下の写真は南鍛治町(若林区)です。
東北本線(新幹線)の南で、荒町の東側になります。
次の写真は旧北鍛治町(青葉区)の辻標です。

ミニシアター系の映画館フォーラム仙台のあたりで、今は町名が代わっていて辻標だけが残っています。
南北の鍛冶町を回って、また疑問がわきました。
なぜ鍛冶町を南と北のそれぞれの場所へ移したのだろう?
南北鍛冶町の共通点は「奥州街道」沿いということだけです。
それに鍛冶屋は多量の水を使うといいます。
その水はどうやって調達したのだろう?
水については、同じ寛永年間に完成した四ツ谷用水から取水したのかもしれません。
どうやらブログのネタを超えたおおごとになりそうな予感(笑)
なので、ひとまず終わり。
時間をかけて文献にあたってみることにします。




















