復元の城としてはかなり見所の多かった金沢城。
兼六園と併せて半日楽しめたので、初日はこれで終わった。
翌日、この旅で一番のターゲットだった北陸の城攻めをしたが、そこについては訳あって別の機会に。
最終日、名古屋への帰路で落とせそうな城を観光マップの中に発見。
それが、福井県坂井市の丸岡城。
全然意識なかったが、現存12天守の1つだ。
日本で城と呼ばれる遺構は数万あるとされているが、土塁だけの砦でも城と名が付くものが沢山あって、いわゆる天守があったものに限ると100~200ぐらい。
その中で、江戸時代以前の天守が残っているものが12あって、そのうちの1つが丸岡城。
今までに自分が見たことのある天守の中では、一番古く見えた。
外から見える木材の劣化具合がその原因。
1576年に築城された現存天守の中では最古の建築様式、と資料には記載されている。
そう言われると、ご当地の犬山城のほうが古いんじゃないの?と思うのが愛知県民の常識。
改めて犬山城の歴史をネットで調べてみると、古い文献によれば1537年の築城らしいが、それは下の2層部分で、天守など上階部は1600年前後に増築されたものらしい。
個人的にはどちらが古いかはどっちでもいい話で、更に歴史を見てみると、丸岡城は昭和23年の福井大地震で倒壊、犬山城は明治24年の濃尾地震や昭和34年の伊勢湾台風で大きな被害を受けて大修復を行っているので、100%戦国時代のままであるという訳ではないだろう。
とは言え、400年以上前の姿を現在に伝えているわけで、その価値が下がるものではないと思う。
では、いざ丸岡城に潜入。
犬山城等と同様に急階段が行手を阻む。
階段というよりハシゴだ。
これが城の本来の姿なんだから、
すっかり暗礁に乗り上げている名古屋城の木造再建計画で「エレベーターを設置しろ」なんていう外部からの要望が的外れだと思ってしまうのは、城好きとしては当然だろう。
本題から逸れてしまったが、この城で珍しいのは瓦が石造りということ。
一般的な焼き物の瓦ではなく、笏谷石という福井県内で採れる石を使っている。
焼き物だと冬の積雪で割れてしまうので、石造りの瓦にしたと説明されている。
他にも雪国の城はあると思うが、そっちも石造りの瓦なのだろうか?
ちなみに金沢城では、木で屋根の土台を造り、その上に鉛板の瓦を被せるという珍しい鉛瓦となっている。
中には復元ジオラマが展示されている。
残っているのは天守だけで、他の建造物も堀も何も残っていないのが寂しい。
続いて、以前にもその前を通過したことがあったが、その時は目的地ではなかったのでスルーしていた一乗谷朝倉氏遺跡。
朝倉氏と言えば大河『麒麟がくる』で、光秀が美濃を逃れて、世に出る前に頼っていた(史実かどうかは未確定)とされていた戦国大名。
後に信長に敗れて朝倉氏は滅亡し、この一乗谷一帯は農地の下に埋もれてしまった。
それが1967年以降の発掘調査により、館跡や庭園跡、城下町などの遺構が見つかり、50年に渡る発掘調査と復元整備によって、全国でも稀な大規模遺跡となったもの。
雨が降ったり止んだりの天気で、時間も午後遅くなっていたので駆け足で見ることになったが、川沿いの谷に細長く広がったエリアに、館跡や庭園、武家屋敷、町屋が連なっている。
山間の寒村のような場所にこれだけの城下町があって、五代百年に渡って朝倉氏が治めていたことにとどまらず、当時、室町幕府最後の将軍となる直前の足利義昭を迎えたこともあるぐらいの重要拠点(美濃と越前をつなぐ要所)だったわけで、前田家の金沢城と比べても遜色のない価値のある遺構と言っても過言ではない。
そして以前、前を通った時にはなかった立派な博物館が建っていた!
館内には復元された城下町のジオラマや、
発掘された出土品の展示、
更には、原寸大で再現された朝倉館の一部など、
興味深い展示ばかりだが、一番の目玉が、
館内に取り込まれた実際の遺構。
これは、川沿いに人為的に積まれた石敷で、ここに交易の拠点となった川湊(港?)があったと考えられている。
発掘調査でこの遺構が見つかり、それを館内に取り込む形で2021年にこの博物館が建てられたもの。遺構そのものが室内に展示されているというのはかなり珍しいんじゃないか?
保存のため、温度や湿度、照明にも気を遣っているが、ほとんど前例のないことなので、今の方法が正しいのか試行錯誤中なのだと説明板には書いてあった。
駆け足で見て1時間半、本当なら、この後に山城である一乗谷城を攻めないと完結しないのだが、雨の中での山城攻めをするには、装備(服装)が不十分だし、暗くなり始める時間帯に初めての地で攻めるのは不利。
ということで、一乗谷城攻めは次の機会に。
以上で北陸地方の城攻めは一旦終了。
もしまた能登のボランティア募集が掛かったら、それにかこつけて攻めに行くとするか!