自死遺族となって

自死遺族となって

父が自殺しました

Amebaでブログを始めよう!
前の記事の続きです。

なぜ生きることに「意志」が必要となってしまったのかということです。


父の自殺は

私にとって自殺という方法で命を終えることができると強く認識された出来事でした。

人は自分の意志ひとつで生きるか死ぬかを選ぶことができるんだと思いました。

特に人は自分の死に対して通常ならは恐怖を抱くものですが、

それをもこえて死を選ぶ人が目の前にいたのですから

私には自分の意思で死を選ぶことが実現可能なことであると感じられるようになっていったのです。

父の死後、

自分勝手に死んでいった父を責めましたが、それと同じぐらい自分を責め続けました。

自分の至らなさや、父の自殺にショックを受け精神的に参ってしまっている自分へいらだちや、

自分が思っている以上に私はとても父の自殺に影響を受けていたみたいでした。
(気付かないふりをずっとしていましたが…)

とにかく自分が生きている、ここにいる意味が、理由がよくわからなくなっていました。

自分を責め、否定し続けてきたから無理もないと思います。

それは今もそうです。自己肯定ができないでいます。

だから毎日が苦しいのです。



それまで人はいつか絶対に死んでしまうということを漠然としか意識していなかったので、

父というとても身近な人の死にとても敏感に私の心は反応してしまいました。


20歳から3年ぐらいは心身ともに落ちるところまで落ちましたが、

時間が解決することもあると思い、焦ることはやめ時に身を任せてきました。

しかし時間が解決できないこともあるんだなとは思います。

父の死の直後よりも今の方が父への思いが強いです。

それは死の直後は父の死をまだ信じられなかったこと、

あまりのショックにすべての感情、思考がとまってしまっていたこと、

今は記憶が当時よりは薄れてきていること…

などいくつかの理由はあるとは思いますが、

記憶は薄れても父への思いは増すばかりです。
父の自殺から7年が経ち、当時18歳だった私は25歳になりました。


25歳で死ぬのはまだ早いですよね。

でも私はあと何年生きなくてはいけないんだろう。

生きていくことがこんなにも苦しいことだとは思いませんでした。

私にはこれから先10年、20年と生きていこうという「意志」があまりないようです。

生きていくことに意志なんて必要ないように思いますが、

父の自殺を目の当たりにしたときから私のなかで生きることは意志が必要なものになってしまいました。

頑張ろうと思えば思うほど虚しいです。

私は弱いのでしょうか。
自殺するぐらい苦しいのなら、

その原因となっているものも含めて現状のすべてを捨ててしまえばいいのに、

逃げてしまえばいいのにと思うけれど、それができないから自殺を選んだんだよね。

命あってこそのものなのにそうではなくなっていたんだよね。

父にとってはそれまでの人生で築き上げたもので、とても誇りをもっていて、

何ものにも変え難いものだった。


今なら父の気持ちやあのときどのような状況だったのかがすこしは理解できるようになりました。

しかし当時18歳の私はまだまだ子どもでした。

何もわかっていなかった、知らなさすぎました。


思春期独特の娘の父に対する嫌悪感を一切感じたこともなく、

反抗期もなく、本当に父のことが大好きでした。

遊びや部活ばかりをしていて勉強を疎かにしてしまい、心配させてしまったこともありましたが、

それでもよく父と2人でご飯を食べに行ったり、買い物に行ったり、旅行に行ったりもしていました。

父は自分の大切なもの、人たちにこれ以上迷惑や心配をかけたくなく、

何より私たち家族を守りたかったのだと思います。

私たちを悲しませてしまうことよりもそちらの方に気がまわったのかなの思います。

すべて推測にすぎませんが、父はそのような人でした。