正義中毒の話をしたが正論を自己満足ではなく、本当に相手の行動を変えることを目的としていたら意味があるのだろうか??
論理で人を叩き潰した論破しているのにどうしてこの人はその行動をやめないのだろうか?と思うことがないだろうか?
頭で人は論理ではなく感情で動くと分かっていても中々理解できないかたに
ダンが発明した便器の形の水飲み機。便器はとても清潔で一度も使われていないことは皆分かっている。「汚くない」と完全に理解しているにもかかわらず、感情がこの特殊な形に反応して、気持ち悪いとおもってしまう。
他にも尿瓶にレモネードを入れて「新品だからきれいですよ」と言われても、嫌な気持ちがすると思います。頭では完全に理解していても感情の壁を取っ払うのは非常に至難の業。
感情は人間の行動を強くコントロールしてしまう。
感情と行動の相関。
物事を統計的に数字の問題として捉えた途端私たちの感情のスイッチはきれてしまう。
実験がある。被験者にかわいい子供たちの写真をみせる。最初のグループに「8人全員が助けを必要としています」と説明した後、「八人のうちだれかにお金を寄付したい場合は少しおいていってください。後で私が八人の中から無作為に一人を選んでお金を渡しておきます」と伝える。二つ目のグループには「八人のうちこの子にお金を渡します」と伝える。結果は特定の一人を指定したグループの方がより多くのお金を置いていった。最初のグループは「どの子にお金が渡るかわからないなら寄付しなくてもいい」と思ってしまったのだ。とても重要なことだ。一人だと気にかけるのに8人になった途端その命に対する関心は一気に低下してしまった。すべての命は同じ価値を持っているはずだから価値の総量は人数に比例するか、少なくとも人数とともに増えていくはず。しかし、現実は価値の総量は一人の場合が最も多く、二人三人に増えるにつれて減っていく。
別の実験もある。一つ目のケースではロキアという少女の写真を見せる。マリ共和国の7歳の子だ。この実験では「彼女のためにいくら寄付したいですか?」と尋ねる。二つ目のケースではロキアだけではなく国レベルのさまざまな問題を訴え「マラウイで食糧不足で300万人以上の子供が苦しんでいる」とか「ザンビアでは深刻な水不足で何百万ガロンもの水が必要」といった統計的数字を挙げる。どちらのケースで被験者はより多くのお金を集めることができたのだろうか?
ロキアの話をした場合は平均一人当たり5ドルを寄付したが国レベルの話をした場合およそ半分になった。大きな問題は人々の感情のスイッチを切ってしまい単なる統計的数字にすぎないと思わせてしまう。感情に訴える方法は人々に慈悲の心を持たせた。一方、統計を使った方法は人々の関心を薄れさせた。では二つの方法を共存させるとどうなるのでしょうか?「ロキアは飢え苦しんでいる」と説明してから「ザンビアでは何万人もの人が・・・」と統計的数字の話を付け加える。結果は統計的数字の話だけをした場合ほど低くなかったが、似たようなものだった。つまり、感情に訴える方法は統計を使う方法と共存できない。
ヨシフ・スターリンも同じことを言っている「一人の死は悲劇だ。しかし100万人の死は統計上の数字に過ぎない」。この言葉は相手が一人なら気に掛けるが、大勢なら関心が無くなるということだ。
人が手助けよしようというには3つの心理的要因が関係してくるようだ。
1つ目が「近さ」。ここでいう近さは物理的距離ではなく心理的な近さ、要は親近感である。例えば親族や自分の属する社会集団である。離れた町で飢え死にしそうな子供よりも高級な会社をクビになった隣人を助けるためにお金を出す可能性の方が高い。
2つ目は「鮮明さ」である。小さい子が目の前で「助けて」と言って今にもおぼれそうになっているのを見たら誰だって助けようと思うだろう。この「鮮明さ」の逆は「あいまいさ」で、誰かがおぼれていることを知ってもその姿が見えず叫び声も聞こえなければ感情のスイッチは入らない。
3つ目は心理学で「焼け石に水効果」と言われているものである。惨事の犠牲者を自分一人で救い出せると思うかどうかに関係する。これが先ほどのロキアの例である。
人がいかに非合理であり、感情で動くかがよくわかる。つまり、正論を言ったところで人は動かない。運動が身体に良いと分かってない人はほとんどいないが、実際に運動している人はどれほどいるのだろうと考えればわかりやすいのではないだろうか。
逆に正論をぶつける以外の方法でアクションをとる必要があるということのようだ。それはまたどこかで。
