いつもありがとう
ここしばらく過去世の影響からか、仏さまの言葉や教えが色濃く出てる気がします。
随分前に「気づきを深める」を書きましたが、これ以上今は深めることができないと感じ途中まで書いて止まっておりました。
その気づきが"気づきだけでなかった"と気づき、そこについては"気づきと手放し"に気づくに書いております。
内容については今から書いていきたいと思います。
あくまでも、ひょっとして・・・という私の気づきであることをご理解ください。と同時に、中には読むと辛い気持ちになったり、えっと思うかもしれませんが、自分の経験からの気づきであることを伝えておきます。
煩悩
煩悩って言葉を聞いたことあるかと思いますが、この煩悩って言葉は仏教用語です。
詳しくはこちらを読んでいただければと思います。
私自身偉そうなことを書くかもしれませんが、特別勉強したわけではなく、気になって調べると仏教用語に辿り着くといった感じです。
大晦日から元日にかけてお寺では108つの鐘をつきます。
除夜の鐘ですね。
これは煩悩の数といわれており、最後の一つを残して旧年のうちに突くそうです。そして、最後の一つを元日に突いて全ての煩悩を解き放ち新たな一年を迎えるということのようです。
108の煩悩。
色々なものがありますが…
煩悩は悪であると考える人もいますが、決してそうではありません。なぜなら煩悩とは本能・欲求という言葉に言い換えることができるからです。欲求とは、人間が本来持っている「食べたい」「寝たい」「成長したい」といった気持ちです。こういった煩悩があるからこそ人間は発展してきたとも言えます。
〜よりそうお葬式HPより抜粋〜
執着
色々読んでみると、煩悩を簡単に言えば執着だとも書いてあったりもします。
上で書いたように、欲があるからこそ目指すものがあり、そこに向かって努力を重ねて実る。
だから煩悩(欲)が全て悪いとは私も思っていなくて、それに固執して度を過ぎたものが執着だと思っています。
さて、歳を重ねて年老いていくと、認知症が始まったりして、食べることに対する執着が強くなる方が多くなると聞きます。
ところが、歳を重ねても食べ物に対する執着がない方もいる。
人はなぜ歳を重ねてきた時、食べることに対する執着というのが際立ってくるのだろう…その理由の一つとして、煩悩が108もある中で、肉体を持つ人間として生きる為に必要なことだからなのではないだろうか。
(先に書いたように欲は悪いことではない)
言い方を変えると、肉体を持つ人間として一番手放せないもの…執着してしまうものが食べ物かもしれない。
そこには時代背景であったり、育った環境にもよると思うし、趣味であったり、その人の持つ個性であったり、一つに絞れない理由はあると思う。
食べること以外に興味などがあると、その人にとって一番重要ではないかもしれない。
それでも人間として生きてる限り食事というのは必要なことである。
色々な理由があるにしろ、108の除夜の鐘の最後の一つ…最後の煩悩、日々生きてる時は人それぞれだと思う。
人生として考えてみるなら、生きてるうちに最後に手放すものは食欲なのではないだろうかと思ったのです。
例えば、うちの父は戦後食べ物のない時代を過ごしたのもあり、また八百屋という商売をしていたのもあり、食べ物の大切さを知りつつも、八百屋をやめた今スーパーで安ければすぐ買ってしまう。
そこは年寄り特有の"冷蔵庫にまだある"ということは忘れて買う、というものもある。
生きていく為に必要な食事も、いつしか必要以上に欲するとそれは執着となり手放せなくなる。
・今買っておかないと、これを逃したら二度と買えないかもしれない。
・欲望のままに食べる
・ストレス解消の為に食べる
・散財することでストレス解消となり、その散財の先は食べ物
これね、私もかつてはそうでした。
今も思い当たる。
だからといって全てがダメなわけじゃない。
じゃあ、なんだ
自分の心身を全く大切にしていないのである。
皆さんは食べることに対して執着はありますか
Arthur