詳説ロンバケ40th No.6

 

 

以前のものを壊すにせよ、受け継ぐにせよ、関連しているという事は≪伝統≫を考える上で大事な事だと思わずにはいられない。 by 大滝詠一

 

序 章 故・宮下静雄さん
第1章 ランナウェイ
第2章 デル・シャノン
第3章 フレディ・キャノン
第4章 ピンボール

 

 

序章 故・宮下静雄さん

1980年7月31日、宮下静雄さんが30歳の若さで亡くなりました。
宮下さんは、大阪の中古レコード店・フォーエヴァー・レコード(Forever Records)を営んでいました。
1973年 4月には伝説のオールディーズ専門誌「Forever」を発刊し、1号から4号までを遺しました。(その後、遺志を継ぐスタッフの手で6号まで刊行)

 Forever MAGAZINE VOL.6

 

類は友を呼ぶというか、大滝詠一さんが宮下さんから大きな影響を受けるまでに時間はかからなかったようです。
大滝さん自ら大阪のフォーエヴァー・レコードの事務所へ訪れることもあったそうで、大滝さんがラジオで語った「大井川を越えたことがない」という言葉を真に受けていた私は、大滝さん渡阪の事実を知って驚きました。
 

あのロイ・ウッドの奇才ぶりも宮下さんから大滝さんは教わったのだそうで、大滝さんが宮下さんと出会わなかったら、「君は天然色」も誕生していなかったのかもしれません。

 

宮下さんご逝去の1980年7月31日といえば、ちょうどロングバケイションのオケのレコーディングが中断していたころです。
「A LONG VACATION VOX」のライナー・ブックに掲載されている初期構想のメモにはなかった曲、「我が心のピンボール」。

宮下さん追悼の意を込めて、大滝さんはあらためて作曲したのでしょう。
 

大滝さんが曲を作るにあたっては『宮下さんがお好きだったデル・シャノンの歌声とフレディ・キャノンのサウンドを基調に』して練り上げたそうです。

 

「A LONG VACATION VOX」のライナー・ブックの裏表紙の裏から9ページめを見ると、当時、コアなファンをターゲットにした「ロングバケイション」の販売戦略として、
フォーエバーレコードに於いては、大滝詠一の廃盤レコードを高値にしてもらう
という策が立てられていたのが分かります。
昔、あなたが中古レコード屋で買った、エレックやコロムビア時代のナイアガラ・レコードも、実は、ナイアガラ・チームのプロモーション戦略で、存外な高値になっていたのかもしれません。

 

 

 

第1章 ランナウェイ

「ランナウェイ」で1980年にデビューしたシャネルズは、1975年9月にシャ・ナ・ナのコピー・バンドとして活動をスタートしました。
その頃、1975年7月のシャ・ナ・ナのアルバム「シャナナウ(Sha Na Now)」には「ランナウェイ( Runaway)」のカヴァーが収録されていました。
シャネルズの「ランナウェイ」ではなく、邦題「悲しき街角」として知られ、デル・シャノンが歌った、あの有名な曲「ランナウェイ( Runaway)」の方です。

 

デル・シャノンの曲は邦題で「悲しき街角」「花咲く街角」「さらば街角」「街角のプレイガール」「恋する街角」「さすらいの街角」「涙の街角」など“街角”がつくものが多く、日本国内だけでは“街角男”と称されました。

 

まずは、デル・シャノンのオリジナルの「ランナウェイ( Runaway)」からお聴きください。

●デル・シャノン 「悲しき街角( Runaway)」  (クリックしてお聴きください)

 

シャ・ナ・ナのバージョンの「ランナウェイ( Runaway)」は、オリジナルに比べていささか仰々しくこってりしたアレンジでした。(注:同じ曲です)

●シャ・ナ・ナ 「 Runaway 」  (クリックしてお聴きください)

 

この“こってり大仰(おおぎょう)”路線は、大滝詠一さんのスラップスティックへの提供曲へ受け継がれているような気もします(笑)。

 

大滝さんがスラップスティックへ曲提供した際に、メロディ・タイプの曲はマージー・ビートを下敷きにして、コメディ・タイプの曲はハナ肇とクレージーキャッツを参考にしたのかと思っていました。
しかし、案外、シャ・ナ・ナのエンターテイメント性と“暑っ苦しさ”みたいなものをヒントにしたのかもしれませんね。

●スラップスティック 「われらスラップスティック!」(1979) (クリックしてお聴きください)

 

●スラップスティック 「スラップスティック見参!」(1979) (クリックしてお聴きください)

 

シャ・ナ・ナの「ランナウェイ( Runaway)」の強烈な印象は、大滝さんが「我が心のピンボール」のアイデアを組み立てるときに、幾ばくかの影響を与えたかもしれません。
 

具体的には、デル・シャノンの歌声やメロディを、異なったサウンド・アプローチと組み合わせて聴かせよう…、たとえばフレディ・キャノンの重厚なロック・サウンドで…、というように。

 

そうそう、大滝詠一さんがプロデュースしたラッツ&スターの名盤「ソウル・ヴァケイション」の実質トップを飾る曲は、「楽しき街角」でした。
「ランナウェイ」から1周回って、“街角”に帰ってきたわけですね。

●ラッツ&スター 「楽しき街角」 (クリックしてお聴きください)

 

 

第2章 デル・シャノン

雑誌「Forever」最終号の巻頭は「デル・シャノン特集」でした。
 

ここで、大滝詠一さんの「我が心のピンボール」に散りばめられた、デル・シャノンのエッセンスを確認してみたいと思います。

 

「我が心のピンボール」では、高音のファルセットのシャウトが印象的です。
たとえば「♪ 想い出せーえ ばにがわ」の後、2:08~のあたりで

♪ ライアイアイアイヤ~
と歌われるところですね。

●大滝詠一 「 我が心のピンボール 」 (クリックしてお聴きください)

 

大滝さんによれば、デル・シャノンのナンバー2曲の合わせ技で、彼の「 街角のプレイ・ガール( Little Town Flirt ) 」(1962年)の曲中の
♪ ハッハッハハーハ~ト
と、おなじく彼の「花咲く街角( Hats Off To Larry )」(1961年)の曲中の
♪ クライ
とを混ぜ合わせているのだそうです。

 

●デル・シャノン「 Little Town Flirt」 (クリックしてお聴きください)

動画の0:36~のあたりです。

 

●デル・シャノン「花咲く街角」 (クリックしてお聴きください)

動画の0:33~のあたりです。

 

デル・シャノン作曲の「 Little Town Flirt 」は、印象深い名曲であるが故に、 本ブログの「長文読解・君は天然色」の回 に登場したジェフ・リンもお気に入りだったようで、オリジナルの雰囲気を忠実になぞった名カヴァーを残しています。
ビートルズを敬愛するジェフ・リンも、元はとは言えば、デル・シャノンのコンサートがきっかけでミュージシャンを志すことになったのです。

Electric Light Orchestra  「 LITTELE TOWN FLIRT 」(1979年)

 

 

「我が心のピンボール」のエンディング(先述の動画の3:36~の部分)では、
♪ クラ~~イ
と繰り返す大滝さんのファルセットのシャウトが、哀愁を帯びた余韻を残します。

これも、デル・シャノンの名曲「二つぶの涙」からの引用でしょう。
「A LONG VACATION VOX」のライナー・ブックのインタビューで、大滝さんは「最後の“クラーイ・クラーイ”は『花咲く街角』そのまんま」と語って煙に巻いていますが、むしろ「二つぶの涙」の方が正解なのでしょう。

Del Shannon 「 Two Kinds Of Teardrops 」(1963年)


動画の2:20~のあたりです。

 

しかも、「我が心のピンボール」のエンディングの 「♪クラ~~イ」 と同じフレーズが、デル・シャノンの「太陽を探せ」(1965年)の中にも一度だけ登場するので、話はややこしいのです。

●デル・シャノン 「太陽を探せ( Keep Searchin')」 (クリックしてお聴きください)


動画の0:53~のあたりです。

 

「我が心のピンボール」のサビの
♪ それは恋のTILT はしゃすぎ
   しくじったのはぼくの夢
 」
の部分では、デル・シャノンが作詞作曲してピーター&ゴードンへ提供した名曲「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス( I Go To Pieces)」が下敷きにされていると思うのです。
 

「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」は、デル・シャノンがサーチャーズに歌ってもらおうと、彼らに歌って聴かせたものの「いらない」と断られ、売り込みに失敗。
たまたまその場に居合わせたピーター&ゴードンが、自分たちが歌う、と名乗り出たのです。

 

米国ではヒットしましたし、「超」がつく名曲ですので、皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

ピーター&ゴードン「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」(1964年)

 

メロディ・ラインがそっくりそのまま引用されているパターンではないので、一見わかりにくいのですが、「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」のサビの0:24~で、
E  C#m 」

と繰り返すシンプルなコード進行が、「我が心のピンボール」のサビで同様に繰り返されるコード進行と一致しています。(実は“街角”の呪縛で「 Little Town Flirt 」とも“同じ”です)

 

翌1965年には、デル・シャノン本人も「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」を歌っています。

●デル・シャノン 「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」(1965年) (クリックしてお聴きください)

 

デル・シャノンのバージョンの動画のサビ、0:25~の部分をバックにして、
♪ それは恋のTILT はしゃすぎ
   しーくーじったのはぼくの~
 」
と「我が心のピンボール」のサビを歌ってみると、両曲の相似性を確認しやすいのではないかと思います。

 

「我が心のピンボール」のBメロと「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」のAメロについても、コード進行は違いますが、両者のメロディの流れ方は同じようにも感じられます。

「我が心のピンボール」とデル・シャノンとの関わりと言えば、ファルセットのシャウトに耳を奪われがちですが、彼の哀愁メロディの名曲「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」は、「 街角のプレイ・ガール( Little Town Flirt ) 」と並び、「我が心のピンボール」に大きく影響を与えている曲だと言える気がします。

 

 

1970年代後半以降、ヒットから遠ざかっていたデル・シャノンは、1990年に自死しています。
しかし、当時の彼を取り巻くムーブメントを見ると、復活を遂げる直前の惜しい別れだったと思えるのです。

当時を振り返ってみます。

 

ジェフ・リンが参加した大物覆面バンド、トラヴェリング・ウィルベリーズのアルバム『 トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1 』が1988年に大ヒット。

しかし、その1988年末に同バンド・メンバーのロイ・オービソンは急死。

ジェフ・リンの推薦もあってロイ・オービソンの後任としてデル・シャノンが、トラヴェリング・ウィルベリーズの後任メンバーに決まる。
1989年ごろにはジェフ・リンのプロデュースでデル・シャノン個人のアルバム・レコーディングも開始。

この1989年には、おなじくジェフ・リンがプロデュースしたロイ・オービソンの遺作「ユー・ゴット・イット」が大ヒット。

トラヴェリング・ウィルベリーズの2ndアルバムは1990年に発表されたものの、なぜかタイトルは『 トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3 』だった。
 

これは、1990年に亡くなった幻のメンバー、デル・シャノンが参加するはずだった『Vol.2』を欠番にしたためと言われています。

 

そんな末に、デル・シャノンの「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス( I Go To Pieces )」は、1991年にリリースされた彼の遺作アルバム「Rock On!」にも収録されました。
ジェフ・リンによる新たなトリートメントで仕上げられた、遺作バージョンをこの章末でお聴きいただきたいと思います。

●デル・シャノン 「I Go To Pieces」(1991年) (クリックしてお聴きください)

 

 

第3章 フレディ・キャノン

 

大滝さんは、「我が心のピンボール」ではフレディ・キャノンの曲をテンポを遅くして使った、とも話していました。
具体的には、主に1960年代前半にボブ・クルーが手掛けていた時代の楽曲群のディストーションがかかったギターやピアノの8分音符刻みなどを引用しています。
ボブ・クルーとは、本ブログの 「長文読解・君は天然色」の回 で既に登場済みの、あのボブ・クルーです。

 

“サウンドの引用”なので、“パッと聴き”で分かりやすい元曲は多くないのですが、フレディ・キャノンのこの曲のリフのフレーズは、そのまま「我が心のピンボール」に引用されていると思います。

Freddy Cannon 「 The Urge 」(1960年)

 

動画の0:08~のフレーズを、大滝さんは「我が心のピンボール」の0:17~のところでテンポを落として用いています。
ちなみに、この曲「 The Urge 」はボブ・クルー自身が作曲しています。
 

大滝さんが1980年代初めに他人へ提供した作品には、フレディ・キャノンの曲からの引用が集中してみられました。

1981年7月発売の西城秀樹のアルバム「ポップンガール・ヒデキ」へ、大滝さんは2曲提供しています。
このうち、「スポーツ・ガール」では、1965年のフレディ・キャノンのヒット曲「アクション」のB面曲「ビーチウッド・シティ」をイントロの下敷きにしています。

●西城秀樹「スポーツ・ガール」 (クリックしてお聴きください)

 

●フレディ・キャノン「ビーチウッド・シティ」 (クリックしてお聴きください)

 

 

一方、1982年11月発売の松田聖子のアルバム「Candy 」へ大滝さんが提供した「Rock'n'roll Good-bye」では、「Action」「All American Girl 」「Summertime USA 」などの曲からフレディ・キャノンの要素が散りばめられました。

●松田聖子 「Rock'n'roll Good-bye」 (クリックしてお聴きください)

 

●フレディ・キャノン 「Action」 (クリックしてお聴きください)

動画の0:30~の部分です。

 

●フレディ・キャノン 「All American Girl 」 (クリックしてお聴きください)

動画の全体です(笑)。

 

●フレディ・キャノン 「Summertime USA 」 (クリックしてお聴きください)

動画の0:25~の部分です。

 

私は、大滝さんがフレディ・キャノンの曲をある時期に集中的に引用したのは、大滝さんのボブ・クルー好きが高じてのことか、はたまた、レッキング・クルー達が演奏しているにぎやかで重厚なフレディ・キャノンの曲のサウンドが気に入ってのことか、そんな理由なのだろうと思っていたのです。

しかし、1980年7月に亡くなった宮下静雄さんを追悼して、大滝さんがデル・シャノンやフレディ・キャノンの曲を繰り返し聴いたことで、その想いがこの時期に作った曲ににじみ出たのかもしれない…、そんなふうに考えるようになりました。

 

第4章 ピンボール

“ピンボール”とは、写真のようなゲームを楽しむ機械です。

 

このピンボール、「揺らしてプレイする」ことを前提にしたゲーム、と言っても過言でなく、台を揺らして球の軌道を調節してよいことになっています。
ピンボールの台も揺らすことを前提に作られているそうです。
しかし、台を持ち上げたり、揺らしすぎたりすると、反則すなわち、ティルト(TILT)になる…。

この“揺れる”ピンボールをとらえて、
♪ 心がカタカタ泣いてるよ
という比喩表現を、松本隆氏は「我が心のピンボール」の歌詞に取り入れているのでしょう。

しかし、1981年当時、「♪ それは恋のTILT 」という表現に込められた比喩の意味を理解した日本人は、どれだけいたのだろうか、と思ってしまうのです。

 

ところで。
“ピンボール”と聞いて思い浮かべるのは、村上春樹氏の小説『1973年のピンボール』です。
文芸雑誌の1980年3月号に掲載され、同年6月に単行本化されています。

 

松本隆氏がロングバケイションの楽曲の作詞をするにあたって、ギリギリ影響を受け得るタイミングに『1973年のピンボール』が世に出ていたことになります。

ちなみに「我が心のピンボール」のオケ録りは1980年8月5日に行われ、同年9月8日に分厚い「♪ アー 」のコーラスが録られています。

『1973年のピンボール』には、1960年代を象徴するアイテムがいくつも登場します。
そのうち、楽曲としては次の3つが盛り込まれています。
 

●ボビー・ヴィー 「ラバー・ボール」(1960年) (クリックしてお聴きください)    

●リッキー・ネルソン 「ハロー・メリー・ルウ」(1961年) (クリックしてお聴きください)

●ビートルズ 「ペニー・レイン」(1967年) (クリックしてお聴きください)

 

要所をおさえて選りすぐられた村上春樹氏のこれらの選曲を見ると、大滝さんの音楽嗜好に近いという印象を持ちます。

それもそのはず。
大滝詠一さん(1948年7月28日生まれ)と村上春樹氏(1949年1月12日生まれ)は同学年。
松本隆氏(1949年7月16日生まれ)と宮下静雄さん(1950年1月25日生まれ)の二人は、大滝さんの一つ下で同学年なのです。

同時代に青春を謳歌した者たちだけが阿吽の呼吸で通じる合えるような、そんなエッセンスが『1973年のピンボール』には詰まっているのかもしれません。

そして、その時代の情景を“ピンボール”の一言に託した松本隆氏の詞と、大滝さんの哀愁を誘う旋律とがマッチした結果、“失恋して泣く男の歌”に一見すると思える「我が心のピンボール」が、時代の空気感や肌触りを伴って、聴く者の心を揺さぶるのでしょう。

 

Special Thanks To 宮下静雄 (Forever)