大滝詠一 「EACH TIME」解説
第3章 英国勢と1984年のホットロッド
第3章 英国勢と1984年のホットロッド
3-1 橋幸夫とホットロッド
本ブログの解説シリーズでも何度かご紹介した、「イーチ・タイム」構想中の大滝詠一さんのメモを見てみましょう。
「1969年のドラッグレース」のコンセプトは “ホットロッド” で、仮タイトルは「 Drag Race 1969 」だったことがわかります。
大滝さんは、『サウンドレコパル』誌での企画「私の100枚」の記事で、ホットロッドの1枚としてロニー&ザ・デイトナスのアルバムを挙げていました。
このアルバムのタイトル曲、「G.T.O.でぶっとばせ」を聴いてみましょう。
ここでは、0:24~の部分のサビの感じを覚えておいていただきたいのです。
ロニー&ザ・デイトナス 「G.T.O.でぶっとばせ」(1964年)
「G.T.O」のアルバム評で大滝さんはホットロッドについて、こうコメントしていました。
橋幸夫が取り上げたほど、実は日本ではブームにならなかったホットロッド。
by 大滝詠一
では、「橋幸夫が取り上げた」という“ジャパニーズ・ホットロッド・ナンバー”を、エンジン音に注目(注耳)してお聴きください。

(↑クリックorタップしてご覧ください)
次項3-2で取り上げるホットロッドの旗手、リップ・コーズの「ヘイ・リトル・コブラ」が'63年のリリース。
そして、ロニー&ザ・デイトナスが「G.T.O.」でデビューしたのが'64年でした。
その'64年に早くも海の向こうのブームに乗ろうとしていた当時の奮闘ぶりが、「ゼッケンNO.1スタートだ」からは感じられますね。
ところで、「日本ではブームにならなかったホットロッド」と評した大滝さんの念頭には、当然、日本のロカビリー・ブームとの対比があったのだと思います。
皆さまご存知のとおり、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の三人が"御三家"と称されましたが、その前の'50年代末には、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の「ロカビリー三人男」がブームを巻き起こしました。
ファッション界ではホットロッドとロカビリーの境界は曖昧で、こんなTシャツを見かける一方で…。
音楽の世界では、両者はその成り立ちから “ホットロッドはロカビリーとちょと違う” ものなのですね。
このお話の続きは次の3-2項および3-4項であらためて…。
※本稿の3-1項は橋幸夫さんが亡くなる前にまとめたものです。
橋幸夫さんは2025年9月4日に逝去されました。お悔やみ申し上げます。
3-2 ホットロッドとアントニオ猪木
前項のホットロッドとロカビリーとの対比の続きで…。
大滝詠一さんのホットロッドに関する解釈は、一言でいうと「サーフィン/ホットロッドはつながっている」というものでした。
大滝さんが書籍で音楽ジャンルについて解説した記事は、そのどれもが興味深いものですが…。
'70年代の『ニューミュージック・マガジン』誌上での「フィル・スペクター研究」や「モータウン研究」などは、その後「ロング・バケイション」のサウンドや楽曲「バチェラー・ガール」へと結実していきしました。
他方、'80年代に入ってからは、『レコード・コレクターズ』誌上での大滝さんと山下達郎さんとの対談記事、「サーフィン/ホットロッドって何だ?」が出色の内容でした。
「サーフィン/ホットロッドって何だ?」での、お二人の対談内容を大まかにまとめると以下のような内容で…。
サーフ・ミュージックは'50年代末からインストゥルメンタルで始まった。
'60年代に入ってもサーフ・ミュージックの演奏の多くはシンプルなものだった。
歌やコーラス入りのザ・ビーチ・ボーイズは異色だったが、すぐにサーフィンといえば「サーフィン・U.S.A.」になった。
その後、歌がメインのホットロッドへと引き継がれ、それらは一流のプロミュージシャンによって演奏された。
●ザ・ビーチ・ボーイズ 「サーフィン・U.S.A.」(1963年)
(↑クリックorタップしてお聴きください)
なお、'60年からほんの数年ノリノリだった、“サーフ・ロックの生みの親”のディック・デイルのお話は 以下の解説回 の「第1章 泳げカナヅチくんとブルー・バルボア」でもお読みいただけます。
【参照】 「ハートじかけのオレンジ」篇 その1
ちなみに、サーフィン映画のヒットなどをきっかけにした海外のサーフィン/ホットロッドのリバイバル・ブームが、'78年に国内にも上陸していました。
大滝さんの「多羅尾伴内楽團Vol.2」(1978年6月)はその波に乗り切れずに、セールス的には "ワイプアウト" しました。

さて、本項3-2の本題です。
大滝さんにとって、ホットロッドを代表するグループといえばリップ・コーズでした。
以下に挙げる3曲は、ラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』で'75年から'77年にかけてオンエアされたリップ・コーズの曲です。
特に1曲目の「ヘイ・リトル・コブラ」は重要曲ですので、必ずお聴きくださいませ。
The Rip Chords 「Hey Little Cobra」(1963年)
(↑タップorクリックしてお聴きください)
●リップ・コーズ 「ホット・ロッド・U.S.A.」(1964年)
(↑タップorクリックしてお聴きください)
1曲目の「ヘイ・リトル・コブラ」の“コブラ”は AC・コブラ というスポーツカーの名前ですが、そのフロントは蛇のコブラのような面構えでもあるのですね。
大滝さんはこの「ヘイ・リトル・コブラ」をアルバム「ゴー・ゴー・ナイアガラ」(1976年)収録の「Cobra Twist」で分かりやすいネタとして使っています。
●大滝詠一 「Cobra Twist」 (動画は'86 MIX by吉田保)
(↑頭出し済み、タップorクリックしてお聴きください)
翌年のシングル「青空のように」(1977年7月)のB面にも、別ミックスの「Cobra Twist」が収録されました。
そのときのイーチ・大滝さんの解説がこれでした。
昨今、ツイストが再び一部でブームであるということで、シングルで再登場ということになった。
「ヘイ・リトル・コブラ」と「ザ・ツイスト」をもとにして内外のツイスト・ソングを折り込んだものである。
勿論、アントニオ猪木に捧げたものである。
by イーチ・大滝
「1969年のドラッグレース」のコンセプトがホットロッドであり、そのホットロッドの代表曲「ヘイ・リトル・コブラ」がチャビー・チェッカーの「ザ・ツイスト」を介して、前篇の第2章で述べた 「座 読書」のメモリー につながりました(笑)。
3-3 「♪ Drag Race 1969 」の秘密
前項3-2および前篇の第2章で述べたように…。
「ザ・ツイスト」をボ・ディドリー・ビートで変換してみせたのが「座 読書」で…。
「ヘイ・リトル・コブラ」をツイストのリズムに乗せたのが「Cobra Twist」なら…。
「ヘイ・リトル・コブラ」をボ・ディドリー・ビートで脚色したのが「1969年のドラッグレース」のサビなのだと思うのです。
それは、どういうことかといいますと…。
ここで、「1969年のドラッグレース」のサビをよーく聴いていただきたいのです。
大滝詠一 「1969年のドラッグレース」
1:26~のサビの箇所では、大滝さんが4声のコーラスで歌っています。
そのうち一番の下の低いバリトン・ボイスで動いているフレーズが左CHから聞こえますから、マネして歌ってみてください。
「♪ Drag Race 1969 」
「♪ Drag Race 1969 」
「♪ しーろいほーそいライン」
「♪ うーねるように 続く」
このサビの低音のフレーズが、3-2項で取り上げたホットロッドの代表曲「ヘイ・リトル・コブラ」のサビのメロディと重なるのです。
サビの頭出しをした「ヘイ・リトル・コブラ」の動画を以下にご用意しましたので(笑)、あらためて一緒に歌ってみてくださいませ。
●リップ・コーズ 「ヘイ・リトル・コブラ」
(↑サビの頭出し済み、クリックorタップしてご覧ください)
「♪ Drag Race 1969 ~」
という「1969年のドラッグレース」のサビの低音の旋律と、「ヘイ・リトル・コブラ」のサビのマッチングを、感じていただけましたね!
これ、3-1の項で挙げたロニー&ザ・デイトナスの「G.T.O.でぶっとばせ」のサビのファルセットじゃない方の主旋律でも、同じような展開になっているんですよね。
橋幸夫の「ゼッケンNO.1スタートだ」のイントロでもメジャーとマイナーの違いはあれど、作曲の吉田正先生はそのニュアンスをがんばって取り入れているように感じます。
"低音"に焦点を当てて説明しましたが、「1969年のドラッグレース」のサビがファルセットの高音を絡めた4声で歌われるのは、まさにサーフィン/ホットロッドの典型的なパターンに傚ったのでしょう。
3-4 ロカビリーとネオロカビリー
ホットロッドとロカビリーの対比のお話をもう少しだけ…。
3-2項のように、サーフィンからホットロッドへという流れをふまえて、「サーフィン/ホットロッド」は不可分なものといえました。
一方で、ロカビリーは、ロック + ヒルビリー ⇒ ロカビリー となったものです。
ここで、日本のロックンロールが "ロカビリー" の影響で独自路線を歩むことになり、大滝さんはそれを反面教師にして「1969年のドラッグレース」を作曲したのだろう…というお話を。
大滝詠一さんは、3-1項で取り上げた山下達郎さんとの'86年の対談「サーフィン/ホットロッドって何だ?」の中で、日本のロックの始まりについて以下のように語っていました。
大滝 おれにも言いたいことがある。日本人にとってのロックの父が「ダイアナ」、ポール・アンカだってことよ。
山下 チャック・ベリーじゃないんだよね。
大滝 エルヴィス・プレスリーですらなくて、ポール・アンカなんだよ。
大滝 C → A m → F → G なのよ。 (メジャーコードで循環する)C → F → G じゃなくて。(マイナーコードの)A m 入れるところに日本の特殊性があるんですよ。
そもそも、“なぜ日本人にとってのロックの父が「ダイアナ」になったか” を遡ってみると…。
'58年の第1回『日劇 ウエスタンカーニバル』ではジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、リトル・リチャードのロックンロール・ナンバーをちゃんと歌っていた山下敬二郎が、同年に「ダイアナ」をレコードで出してしまったのですね。
これが大ヒットして、「ダイアナ」は日本のロカビリーの代名詞になってしまったというわけです。
'58年にポール・アンカが初来日したことも、レコード化を後押ししたのかもしれません。
(↑タップorクリックしてお聴きください)
ことのいきさつとしては、ポール・アンカの「ダイアナ」をよく分からないままロカビリーだと勘違いして、山下敬二郎がカバーすることになったそうで。
当時は、海外からくるものはみんなロカビリーだと思われていたのだとか(笑)。
「ダイアナ」は、バリバリのポップスなのに…。
「サーフィン/ホットロッドって何だ?」の対談の前年に流行った、チェッカーズの「涙のリクエスト」もまた「ダイアナ」だ、というのが大滝さんの見解でした。
「1969年のドラッグレース」のコード進行をあらためて眺めてみると、なるほど、マイナーコードは一切登場せず、すべてメジャーコードのみで作られています。
大滝さんの明確な意図が感じられますね。
「ロカビリー三人男」の時代はさて置き、ストレイ・キャッツが牽引するネオロカビリー・ブームが、'80年前後のころ日本にも伝播してきました。
伊藤銀次編曲による沢田研二の「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(1981年)もその一例です。
そのネオロカビリー・ブームをうけて'83年に結成されたヒルビリー・バップスは、記憶に残るバンドです。
現代でも彼らのフォロワーが存在しますね。
ヒルビリー・バップスの代表曲は「真夜中ををつっぱしれ」です。
●ヒルビリー・バップス 「真夜中をつっぱしれ」(1987年)
(↑タップorクリックしてお聴きください)
作曲者のクレジットは肝沢幅二ですが、これは忌野清志郎だと思われます。
恩人から頼まれて事務所つながりで曲を提供するときに主に使っていたようですね。
余談ですが、その忌野清志郎は、前篇の第2章で肝となった曲「ハンド・クラッピング・ルンバ」をかつて歌ったことがありました。
ティン・パン・アレーが2000年にTin Panの名義で復活した際の「Hand Clapping Rhumba 2000」がそれです。
Tin Pan 「 Hand Clapping Rhumba 2000 」
サビで聞こえる大滝さんの歌声や、間奏での大滝さんのセリフ「♪ 2番は1番とちょと違う」をお聴き逃しなく。
これが後の3-6項でのオチへとつながっていきます。
【参照】この曲の貴重なライブ演奏の動画はコチラ("大滝さん"は登場しません)。
●ライブ版「 Hand Clapping Rhumba 2000 」
(↑タップorクリックしてご覧ください)
さて。
話をロカビリーに戻して、'83年当時のネオロカビリー・ブームの中で起きた「1969年のドラッグレース」に関する“未解決事件”について、記しておきましょう。
「セクシー&セヴンティーン (Rant N' Rave With The Stray Cats)」というアルバムが、「イーチ・タイム」の前年の'83年にリリースされました。
ロカビリーバンドであるストレイ・キャッツのそのアルバムで1曲目を飾ったのが、「ぶっ飛ばせ!ティーン・エイジ( Rebels Rule)」という曲です。
ヒルビリー・バップスの「真夜中をつっぱしれ」や3-1項の「G.T.O.でぶっとばせ」と同じような、“暴走路線”もとい“制限速度をちょと超えてるかも路線”の「ぶっ飛ばせ!ティーン・エイジ( Rebels Rule)」を聴いてみましょう。
ストレイ・キャッツ 「ぶっ飛ばせ!ティーン・エイジ」(1983年)
お聴きのとおりメロディもリズムも、前篇の第2章 で取り上げた楽曲「ボ・ディドリー」をそのまま踏襲していますね。
ほぼ同時期に制作されていたであろう、ストレイ・キャッツの「ぶっ飛ばせ!ティーン・エイジ」と大滝さんの「1969年のドラッグレース」はどちらも、ぶっとばす車とボ・ディドリー・ビートの要素を融合させた曲です。
両者の組成が似通っているのは興味深いですね。
「ぶっ飛ばせ!ティーン・エイジ」は、デイヴ・エドモンズのプロデュースによるものです。
彼はフィル・スペクターのフォロワーで、かつ、「恋するふたり」(1979年)のヒットで知られるニック・ロウらとロックパイル('76~'81年)を結成して、アルバムも1枚リリース。
そのアルバムの初回盤おまけEPでは、ニック・ロウと二人で、大滝さんの「幸せな結末」の下敷きソングである「Take a Message to Mary」をカバーしていました。

先に“未解決事件”と述べたのは、はたして大滝さんがストレイ・キャッツのこの曲を聴いていたのかどうか判然としないからです。
ストレイ・キャッツのアルバムは'83年8月15日のリリースでした。
他方、『大滝詠一レコーディング・ダイアリー Vol.3』によれば、大滝さんは「1969年のドラッグレース」のレコーディングを'83年の2月には始めていました。
made by @mac5inkyo
時系列的には大滝さんが“レコーディング”の前に"ストレイ・キャッツ"を耳にすることはなかったと思われますが、「Rebels Rule(ぶっ飛ばせ!ティーン・エイジ)」はシングルでもリリースされているのですね。
それがアルバムからのシングル・カットではなく、アルバムに先行してのシングルだったのなら、もしかしたら…。
しかし、敢えてシングル「Rebels Rule(ぶっ飛ばせ!ティーン・エイジ)」の正確なリリース日は追究しないまま、“未解決”にしてあります。
なぜなら、より象徴的な曲がその前年の'82年にリリースされていたからです。
3-5 未来は過去になる
前項3-4のストレイ・キャッツの「ぶっ飛ばせ!ティーン・エイジ」の前年に出て、大滝詠一さんが「1969年のドラッグレース」のレコーディングよりも前に確実に聞けた同系統の曲に、「アイ・ウォント・キャンディ」(1982年)があります。
英国のニュー・ウェイヴのバンドであるバウ・ワウ・ワウ(Bow Wow Wow)が、ザ・ストレンジラヴズの'60年代の有名曲を、アルバム「アイ・ウォント・キャンディ」のタイトル曲としてカヴァーし、ヒットさせたのです。
Bow Wow Wow 「I Want Candy 」
彼らは'81年にアルバム「ジャングルでファン・ファン・ファン」をヒットさせ、“ジャングル・ビートにロカビリーをミックスさせたファンクサウンド”などと、ややこしく形容されました。
ちょうど'82年はバウ・ワウ・ワウが来日したり、彼らの曲が資生堂のTVCMソングに起用されたりして露出が多かった年です。
はたして、大滝詠一さんの耳に届いていたのでしょうか。
私は、大滝さんもストレイ・キャッツのプロデューサーのデイヴ・エドモンズも、この「アイ・ウォント・キャンディ」を聴いたことが、“各々の曲”誕生のきっかけの一つになったのではないかと思っています。
ここで、バウ・ワウ・ワウがカヴァーした元の、ザ・ストレンジラヴズの方の「アイ・ウォント・キャンディ」(1965年)を聴いてみましょう。
The Strangeloves 「 I Want Candy 」(1965年)
ザ・ストレンジラヴズは、ソングライター&プロデューサーの3人からなるグループで実態なきバンドとされていますが…。
その詳細は後述します。
同年に英国のザ・トレメローズも「アイ・ウォント・キャンディ」をカヴァーしていました。
ザ・トレメローズはビートルズと同様に、ブリティッシュ・インヴェイジョンのときに活躍したバンドです。
The Tremeloes 「 I Want Candy 」(1965年)
「アイ・ウォント・キャンディ」は人気曲で、2000年代に入ってからも、バックストリート・ボーイズのメンバーの実弟のアーロン・カーターによってシングルでリリースされたり…。
●Aaron Carter 「 I Want Candy 」(2000年)
(↑タップorクリックしてご覧ください)
2007年のお色気コメディ風の 映画『I Want Candy』 のサウンドトラックで、スパイス・ガールズのメンバーによってカバーされたりしました。

●「I Want Candy 」trailer
(↑当該箇所の頭出し済み、タップorクリックしてご覧ください)
これら全ての「アイ・ウォント・キャンディ」のサビをよーく聴いていただきたいのです。
「♪ アーイ ウォントゥ キャ~ン ディ!」
このメロディが、「1969年のドラッグレース」に登場しています。
「1969年のドラッグレース」の1番の終わりの…、
「♪ 未来はー過去にーなーる~」
の後に続く間奏の始まり部分で、バッキング隊やオルガンがそのフレーズを演奏しているのです。
以下に、「1969年のドラッグレース」の当該部分の頭出し動画をご用意しました。
「♪ 未来はー過去にーなーる~」
の後にすぐ始まりますから、お聴き逃しなきよう…。

●「1969年のドラッグレース」の間奏の始まり
(↑直前から頭出し済み、クリックorタップしてお聴きください)
実は、ザ・ストレンジラヴズの「アイ・ウォント・キャンディ」は、ラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の「'65年のアメリカン・サウンド特集」('77年4月放送)で、大滝さんが選曲していたのですね。
この回で大滝さんは、米国で'65年にデビューしたタートルズやラヴィン・スプーンフルを紹介したり、ザ・ストレンジラヴズのフェルドマン、ゴールドスタイン、ゴトラーの3人がマッコイズ(The McCoys)にも関わった話を披露したりしました。
そして、ザ・ストレンジラヴズの「アイ・ウォント・キャンディ」をかけた際に、直感的な感想を大滝さんが述べたのです。
実に興味深いその所感とは次のとおりでした。
・ボ・ディドリー・ビートはアメリカ的な感じがする
・ボ・ディドリー・ビートは日本じゃウケない
・ボ・ディドリー・ビートは全然濡れたところがなく、乾きっぱなし
大滝さんのこの発言と本章のこれまでの内容をまとめると、浮かび上がる曲とは…。
「3-1 橋幸夫とホットロッド」の項でふれた「日本ではブームにならなかったホットロッド」をベースにしていて。
「3-4 ロカビリーとネオロカビリー」の項で述べたように、しっとりとしたマイナーコードを取り入れた日本人好みのロックンロールとは対極にあってメジャーコードだけで構成されていて。
さらに、日本ではウケのよろしくなかったドライなボ・ディドリー・ビートに乗っけた曲。
大滝さんがそんなチャレンジングな曲づくりをしたのが「1969年のドラッグレース」だといえそうです。
決して革新的なことをやるわけではないけれど、大衆にウケるラブソングといった範疇にとどまることなく、大滝さんは先駆的な冒険をしたのだと…。
人のいない道を探して走り抜けたその先でフロントランナーが体感するのは、なんとなくこの一節のような気がします。
「♪ 景色だけが変わり 未来は過去になる 」
さて、先ほどのザ・ストレンジラヴズの「アイ・ウォント・キャンディ」には、 ブリティッシュ・インヴェイジョン に関わる面白いエピソードがあります。
ザ・ストレンジラヴズのメンバー(実際はプロデューサー&ソングライターのチーム)は、'64年から吹き荒れていたブリティッシュ・インヴェイジョンの時流にのるために、英国勢のバンドを装おうと企てたものの、英国訛りはマネして歌えない、とあきらめて…。
思案の末、元羊農家でオーストラリア出身の3兄弟だと偽って、架空のプロフィールをでっちあげたのです。

結局のところ、「アイ・ウォント・キャンディ」がヒットしてステージで演奏する必要に迫られ、前掲の動画のように、4人のセッションミュージシャンたちがツアーメンバーとなり、パフォーマンスを引き継いだのですね。
バンドメンバーの架空のプロフィール云々と聞くと、私は大滝さん発案のフィヨルド7が思い浮かびます(笑)。
そもそも、「アイ・ウォント・キャンディ」が流れた回のラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』のテーマ、「'65年のアメリカン・サウンド」の意味するところとは…。
「1964年は、エルヴィス蒐集を友達に任せて、私はリバプール勢をせっせとコレクトしていた時期だったのです」
by大滝詠一
'64年に始まったブリティッシュ・インヴェイジョンを受けて、リバプール勢に夢中だった大滝さんは、英国勢に駆逐されたアメリカン・ポップスについて、次のようにも語っていましたが…。
ビーチ・ボーイズとフォー・シーズンズとタムラ/モータウンだけなんですよ。
'64年以降スラッとすり抜けたのは、(米国で)この3組だけだからね。
by大滝詠一
ブリティッシュ・インヴェイジョンの隆盛が続く中、'65年になるとフォークロックのタートルズやラヴィン・スプーンフルがデビューするなど、それまでブリティッシュビートに押される一方だった米国のロック界に巻き返しの萌芽が見られたのですね。
大滝さんはリアルタイムにそれを実感していたのでしょう。
こうしてみると、「1969年のドラッグレース」を語るには、ホットロッドとボ・ディドリー・ビートのほか、あらためてブリティッシュビートにふれないといけませんね。
3-6 英国勢~リバプールでっせ~
俺にとってリヴァプールっていったら、(米国の)バディ・ホリーとエヴァリー・ブラザーズなのよ。
by大滝詠一
そう言った大滝さんが、その両者を絶妙にミックスしたのが「恋のナックルボール」で…。
そして、“リバプール・イディオムよ再び”路線のもう1曲が「1969年のドラッグレース」でした。
俺がイギリスって言ったらデイヴ・クラーク・ファイヴ(DC5)だから(笑)。
あえてDC5の「トライ・トゥー・ハード」をイントロにしてるってことは、リヴァプールでっせという宣言。
by大滝詠一
この大滝さんのことば、「リバプールでっせ」宣言を追ってみましょう。
The Dave Clark Five 「 Try Too Hard 」(1966年)
お聴きのとおり、デイヴ・クラーク・ファイヴの「トライ・トゥー・ハード」の冒頭のピアノのフレーズが、「1969年のドラッグレース」のイントロに引用されているのが分かります。
「トライ・トゥー・ハード」と同じタイトルのアルバムジャケットでは、メンバーの乗った車がデザインされており、これが大滝さんのイメージの中でホットロッドと英国勢をつなぐシナプスの役割だった気がしますね。
The Dave Clark Five 「 I Know 」(1966年)
アルバム「トライ・トゥー・ハード」の収録曲「アイ・ノウ」は決してデイヴ・クラーク・ファイヴの代表曲ではないものの、ボ・ディドリー・ビートがアクセントになったカッコいい曲で、大滝さんにとって印象深かったことが想像されます。
上掲のアルバムジャケットのデザインも含めて、この「アイ・ノウ」1曲だけで、ホットロッドと英国勢とボ・ディドリー・ビートがつながるわけで、実は「1969年のドラッグレース」の核心に迫るマストな曲だ、といっても過言ではないですね。
ちなみに、デイヴ・クラーク・ファイヴの曲は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の番組中でしばしばオンエアされましたが、これらの2曲は一度もかかったことがありません。
“来たるべき日”にそなえて温存しておいたのでしょうか…。
【参照】DC5については、All About「恋するカレン」その2 を参照
「1969年のドラッグレース」のAメロでベースラインが下降していくところの…、
「♪ あの日 車でー 競争したーのさ 」
ここは、大滝さんの言によれば、英国のホリーズの「ジェニファー・エックルズ」のメロディ展開をモチーフにしているとのことです。
The Hollies 「 Jennifer Eccles 」(1968年)
ホリーズもまたブリティッシュ・インヴェイジョンを代表するバンドです。
先に挙げた大滝さんの「私の100枚」の企画では、ブリティッシュビート5組のうちの一つに挙げられていました。
あとの4組が、デイヴ・クラーク・ファイヴ、サーチャーズ、ハニーカムズ、ゾンビーズですから、大滝さんのホリーズへの注目度の高さが分かります。
それもそのはず、大滝さんはホリーズの日本公演を見てバンドがやりたくなったのだそうです。
バンド名は、バディ・ホリーにちなんだものですしね。
さて。
「1969年のドラッグレース」とブリティッシュ・インヴェイジョンといえば思い出す…シリーズの、その①です(笑)。
大滝さん的には、「朝日のあたる家」よりもバリー・マン&シンシア・ワイルによる「朝日のない街」を演奏したバンド、という仕分けであろう英国のアニマルズ。
●アニマルズ 「朝日のない街」(1965年)
(↑クリックorタップしてお聴きください)
このアニマルズも、ブリティッシュ・インヴェイジョンを代表するバンドとされています。
次に挙げる曲「ストーリー・オブ・ボ・ディドリー」は、"英国のアニマルズ" が "米国のボ・ディドリー" の生い立ちや音楽歴をブルース的な語りにして、ボ・ディドリー・ビートに乗せるというユニークな曲でした。
The Animals 「 The Story Of Bo Diddley 」(1964年)
上の動画で2分を過ぎたあたりから曲が劇的に展開していきます。
「1969年のドラッグレース」との関わりでいえば、オルガンのサウンドの影響が挙げられるでしょうか。
つづいて。
「1969年のドラッグレース」とブリティッシュ・インヴェイジョンといえば思い出す…シリーズの、その②です(笑)。
2025年3月18日に発売された書籍『All About Niagara 1973-2024』のデラックス版には、妄想復刻盤レコードとして「朝からゴキゲン」が付属しました。
'75年8月1日にエレックから発売される予定だった幻のシングルが「朝からゴキゲン」です。
今回の妄想復刻盤の音源自体は「NIAGARA MOON -30th Anniversary Edition-」にボーナス・トラックとして収録されています。
曲は、ご存知のようにクリネックス・ティシューのCM曲へ転用されました。
この時期に大滝さん自身のリリース曲とCM用につくった曲とで、しばしばクロストークがあったのは、前篇の第2章で述べたとおりです。
●大滝詠一 「クリネックス・ティシュー」
(↑頭出し済み、クリックorタップしてお聴きください)
そして、その一節がこの曲の前奏にこっそり用いられたことは、私だけが知っている…(笑)。
「朝からゴキゲン」という曲名を聞いて思い出すのは英国のハーマンズ・ハーミッツです。
大滝さんは、彼らからそのタイトルをいただいたのではないでしょうか…。
ハーマンズ・ハーミッツも、ブリティッシュ・インヴェイジョンで活躍したバンドです。
ナイアガラ界隈でハーマンズ・ハーミッツの重要な曲といえば「ヘンリー8世君」です。
「ハンド・クラッピング・ルンバ」の「♪ 2番は1番とちょと違う 」というシャレの元ネタにされているからですね。
Herman's Hermits 「I'm Henery the Eighth, I Am」(1965年)
動画の間奏の0:26~の部分で次のくだりがあります。
「♪ second verse, same as the first 」 (2番の歌詞は、1番と同じさ)
前篇の第2章 で述べたとおり「1969年のドラッグレース」には「ハンド・クラッピング・ルンバ」由来と思しきハンドクラップが入るなど、両曲は密接な関係といえました。
そして、大滝さんのシングル「朝からゴキゲン」のB面に予定されていたのが、「FUSSA STRUT Part-1」。
(最終的には「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」に収録)
その歌詞は「♪ FUSSA STRUT 」をひたすら繰り返すというものです。
「♪ FUSSA STRUT 」とシャウトするメロディは、「1969年のドラッグレース」のイントロの冒頭のピアノのフレーズに似ていますね…!
さあ、これで、あなたは、「1969年のドラッグレース」のイントロを耳にするたび、「♪ FUSSA STRUT 」とシャウトしたくなる呪縛にかかりました(笑)。
ニューオリンズの葬列の行進から端を発したリズムがセカンドラインで、その行進に結びついてちょっとファンクに歩くさまが "ストラット"。
「♪ FUSSA STRUT 」となればニューオリンズ・ファンクをまとった福生流のねり歩きです。
楽曲「 FUSSA STRUT Part-1 」は、英国勢とニューオリンズがコラボするナイアガラ・ストラットだった…。
というのは、強引にまとめ過ぎでしょうか。
「迷った時には墓参りだよ」
墓参りとは、はたしてニューオリンズの葬列につながるのか…。
迷った時には、初心にかえって「NIAGARA MOON」へ立ち戻るのか…。
次回、締めとなる後篇の第4章では「1969年のドラッグレース」を軸に、はっぴいえんどとナイアガラのほろ苦くも麗しいヒストリカルストリーを紡ぎますが、"ニューオリンズ"はその栄光と挫折のターニングポイント、分岐点だったと思うのですね。
今回も最後まで長文をご精読いただきまして、ありがとうございました。






























