【系譜】 で室町時代の西条吉良氏である義尚と義真が、兄弟ではなく親子であることを導き出した谷口雄太さんの研究を紹介しましたが、義尚の生年を探る中で公卿中山定親の日記「薩戒記(さっかいき)」の嘉吉元(1441)年8月3日条から、義尚が同年7月4日に出家していることが分かっています。これは同年6月24日に将軍義教が殺害された嘉吉の変との連動が考えられています。

 

足利義教


同日条には、義尚が正四位下から従三位への上階を望んでいるとする記述もあります。西条吉良氏は義尚在世中の1429~40年、義教のもとで将軍後継候補に相当する「御一家」として史料に現れますが、 当時は義尚の従兄弟の斯波義重が従三位に任ぜられ、斯波氏は将軍職を狙っているとみなされていましたので、吉良氏の家格を斯波氏と同格にすることは、斯波氏の家格が相対化されてその野心をけん制することになり、吉良氏だけでなく、義教を失った幕府にとっても有益だったと想定されています。

 

斯波義重


上階は成功したのでしょうか。残念ながら、一級史料から知ることはできませんが、上階したとすれば天皇への拝謁が許される三位以上の「昇殿」になります。系図史料ですが、養寿寺(西尾市下矢田町)にある「吉良系図」の「義尚」には「元服時従公方室町殿御所賜義之一字、無官之時被許昇殿礼式異他因玆代々不望官位云々」と、昇殿に関して特筆されています。


また、近世史料である「西尾古老伝」(西尾市岩瀬文庫蔵)でも、「義尚公無官聴昇殿ノ時 後花園院ノ天盃神主家(御劍八幡宮社家新実氏)江賜ル神納ニアラズで主家ニ所持ス」と伝えています。義尚は斯波氏の例にならい、従三位に任ぜられることに成功して昇殿し、この昇殿の礼式故実が戦国期まで吉良氏に伝わったのだと考えられています。いわば、中世吉良氏の絶頂期と言えるかもしれません。


徳川二代秀忠の征夷大将軍の叙任に際し、「吉良流昇殿」の事を家康が京都吉田社の神龍院梵舜に尋ねたことが「舜日記」慶長10(1605)年4月12日条に見えており、このような故実が伝えられていたことが吉良氏の高家登用につながったとの指摘もあります。吉良氏歴代には義尚の他に昇殿したとの記事は他に見当たらず、この「昇殿」を義尚の昇殿とする可能性を指摘する声もあります。