「この間の遺恨、覚えたるか!」

 

 江戸城松の廊下に一閃がひらめく。白刃を手にした浅野内匠頭が我に返ると、眼前には鮮血の舞う中で倒れ込む吉良上野介の姿があった。

 

 遺恨――上野介にはまるで身に覚えがなかったが、内匠頭が上野介の背に浴びせた一刀が、後世に語り継がれる義士たちの物語の幕開けになったのは確かだった。

 この一撃はさらに、上野介の殺害や吉良家の断絶といった惨劇をもたらし、彼に今なお、いわれなき敵役の幻影を与え続けているのもまた、確かだった。

 

 

――と、いうわけで、今回は中世吉良氏ではなく、近世の吉良義央(よしひさ)を中心に取り上げます。浅野内匠頭の刃傷事件に端を発する元禄事件を題材にした物語「忠臣蔵」で内匠頭を理不尽な理由でいじめ抜いた居丈高な吉良上野介義央、一方、先祖伝来の領地があった西尾市吉良町では黄金堤の築堤や赤馬に乗っての巡視、新田の開拓など善政を施した名君と語り継がれる吉良上野介義央……いずれの義央像も史実とは受け止めがたく、多くの研究者が実像の解明に挑んできました。


【敵役】こうして仕立て上げられた

 

西尾市文化会館で昨年12月14日に市制60周年記念式典があり、俳優の石坂浩二さんが「私と吉良様」と題して記念講演をされました。NHK大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年)で吉良上野介役を演じられた石坂さんは、「歴史学者の書いていることにはウソが多い。吉良様の実像がなぜここまでゆがめられるのか」と、吉良義央が敵役に仕立て上げられていくプロセスについて、ご自身の調べに基づいて話されました。

 

石坂さんによると元禄事件当時、江戸で日記を書いていた人たちの記述に、刃傷事件も討ち入り事件も出てこないことから、「事件への関心は高くなかったのではないか」とされました。事件についての評判の多くは赤穂浪士の“義”に理解を示すものでしたが、儒学者・佐藤直方の「赤穂浪士は不義の輩。吉良が浅野を害したなら敵だが、浅野は私怨で吉良を打ったから死を賜った。吉良を敵と呼ぶのは見当違い。浪士が討ち入り後に自殺したなら、その行為は義でなくとも同情の余地はあるが、お上の命を待ったところに『称賛してもらおう』との魂胆が見える」という記述を紹介され、「これが真実に近い」と述べられました。

 

討ち入りからから45年後に元禄事件を題材にした人形浄瑠璃が上演され、それが歌舞伎になっていったことを紹介。「江戸時代は実名が使えなかった。吉良様は高師直になったが、高師直は室町時代に実在する人物で、太平記には好色なじじいとして描かれている。これを吉良様に当てはめ、浅野に当たる塩冶判官の妻に横恋慕し、拒絶されて判官に嫌がらせをする。判官は何も知らない名君とされている」と述べられ、「当時の記録にある実際の浅野の評判は女好きの暗君だったが、吉良を敵役にするため、浅野を名君にする必要があった」と分析されました。

 

太平記絵巻に描かれた高師直

 

明治になると解禁令が出て、実名が使えるようになり、ある作家が実名で忠臣蔵を書いたことを紹介され、「これが吉良様が敵役として広まった発端。その後、映画やテレビで何回上映されたか。あんな嘘っぱちなものを実名で。吉良の方たちは名誉棄損で訴えるべきだった」と笑いを誘いました。


【実像】やさしいが正直すぎる面も

 

高校講師の桂沢仁志さんによる『仮説「刃傷松の廊下事件」』(ブイツーソリューション・2013年)では「『仮名手本忠臣蔵』は幕府の検閲や上演禁止措置から免れるために、事件発生の時代を約300年以上も前の室町時代に設定し、それとなく分かる程度の架空の名前にした。さらに、劇的効果を狙って、至るところに架空の出来事を加えた。すなわり、『仮名手本忠臣蔵』は全くのフィクションである。後世の人たちは時代を元の元禄に戻し、架空の名前に実名を入れて『忠臣蔵』を本当に起こった出来事のように創ってしまった。つまり、史実に浄瑠璃的なフィクションが混在しているのが『忠臣蔵』なのである」と指摘しています。

 

同書から引くと、忠臣蔵で扱われている刃傷事件の背景には①院使饗応役の伊達村豊より勅使饗応役の浅野の進物(幕府にも認められた饗応役指南料としての賂=まいない=であり、わいろではない)が少なかった②勅使饗応役の予算を浅野が出し惜しみをした③浅野夫人・阿久里と吉良の三女・阿久里がたまたま同名だったことから、吉良が阿久里夫人に横恋慕した④浅野家秘蔵の茶器を吉良が所望したが浅野が断った⑤三河吉良領で製造されていた「饗庭(あいば)塩」の品質が芳しくないのに対し、評判の良い「赤穂塩」の製法を吉良が聞き出そうとしたが浅野に断られた⑥浅野が寵愛する美少年の小姓を吉良が望んだが断られた―があり、②は考察を要するものの、あとは風評にすぎないとしています。

 

華蔵寺に安置されている吉良義央木像

 

このブログでおなじみの郷土史家・小林輝久彦さんは、2006年10月に当時の吉良町で行われた「義周公没後300年記念シンポジウム」の資料として、「一次史料から見た吉良義央の人物像」と題した論考を寄せてみえます。義央生存中の日記や書状などから7件の記述を紹介した上で「吉良公は実直で職務に忠実な行政官僚だった。儀式・典礼の故実を他の誰よりも熟知しており、儀式のたびに諸家が吉良公の指導を受けるほど有能だった。しかし、朝幕間の政治的な問題には口を挟まなかった。幕臣の勤務態度に非常に厳しく、徹底した処罰を行った新将軍綱吉におもねることもしなかった。領内の菩提寺の住職や領民に対する配慮や思いもうかがえ、『やさしい殿様』だったことも事実だろう。一方で、吉良公は同僚の指示でも誤りは誤り、領内の請願でもだめなことはだめと言っており、頭の働きが早くてはっきりものを言う人だったようだ。だからと言って吉良公がいつも『過言』(言い過ごして無礼となること)していたとする人物評を裏付ける史料と言い切るには慎重を要する」と分析してみえます。

 

【黄金堤】確実な史料欠き伝説の域

 

さて、そんな義央の「領民思い」を形にしたものが、西尾市吉良町にある「黄金堤」です。同市観光協会ホームページには「言い伝えによると、当時この辺りの村は大水のたびに被害に苦しんでいました。義央公は水害から領地を守るため、領民とともに長さ約180メートル、高さ約4メートルの堤防を一夜で築いたといわれます。その後は水害がなくなり、良田となったことから、人々はこれを『黄金堤(こがねづつみ)』と呼んで遺徳をたたえました」とあります。

 

西尾市吉良町の黄金堤

 

2011年9月に西尾市吉良町で行われた義央の正室・富子の毎歳忌で、記念講演「義央公と“黄金堤”」の講師を務められた同市文化財保護委員の北村和宏さんによると、黄金堤を除去する計画が持ち上がった明治後期の20世紀初頭、岡山・寺島・木田・小牧の諸村の「決死的」反対で不成立になります。1926~33年に行われた横須賀村耕地整理 では、着手時と完了時に義央の墓前で「報告祭」を行っています。大正時代に県内で地元顕彰の動きが高まり、1932年に吉良公史跡保存会が設立され、「郷土趣味読本」や「吉良義央公概伝」が刊行され、黄金堤の築堤が民話風に広まりました。

 

黄金堤に関する史料について北村さんは、「小金堤」の拡幅工事に関する「万大宝恵帳」の1803年3月の記事や江戸時代の絵図、明治時代の地籍図などから「史料は非常に少ないが、江戸時代に黄金堤が存在したのは確実」とみています。1990年には黄金堤の発掘調査が行われましたが、義央の時代に築堤したかどうかについての結論は出なかったそうです。そのうえで「義央公の黄金堤の築堤については、確実な史料を欠き、現段階では言い伝えの域を出ない」と結論付けられました。

 

黄金堤の拡幅工事について書かれた江戸時代の史料

 

【赤馬巡視】義冬の書状で伝説脱却?

 

さらに、「やさしい殿様」を印象付ける伝説として、義央が赤馬(農耕馬・駄馬)に乗って吉良領内を巡視し、気楽に領民と言葉を交わしたと言われています。が、義央は江戸在府の旗本、かつ朝幕間を往来する多忙な高家で、領地吉良に立ち寄るのは困難でした。ただ、【吉良家日記②】 で紹介しましたが、わずかに1回、京都への臨時訪問の帰りに吉良へ行ったという記録があります。とはいえ、義央の赤馬伝説を裏付ける決め手にはなりません。

 

華蔵寺の門前にある赤馬像

 

そんな中、赤馬伝説を裏付けるとみられる史料として、義央の父・義冬の書状というのがあるそうです。西尾市吉良町の花岳寺に所蔵されていたようですが、現在は所在不明ということです。ただ、幕末に西尾藩士が解読して全文を「昔物語後篇書抜」(西尾市岩瀬文庫蔵)に掲載しており、現在でも内容を知ることができ、これを活字化して読み下したものが「西尾市岩瀬文庫叢書三」に掲載されており、市立図書館の郷土資料コーナーでも閲覧できます。

 

これまで注目されてこなかった書状ですが、日付は「十二月五日」で年が分かりません。1966年に実物の書状を調査した郷土史家の先生によると、義冬の死去2年前の「寛文6(1666)年」と考えられているそうです。文中には「横須賀村の与兵衛が駒を求めている由、別書で申す通りまずは飼料を申し付けておくように。来年は父子(義冬と義央)が上京するので、その時に藤川か岡崎へ引いて来て見分し、それからということにしよう」という部分があります。


父・義冬も高家筆頭でしたので、前述のように京都訪問の日程で領地吉良に立ち寄る余裕がなかったと考えると、馬を吉良に近い東海道の藤川宿か岡崎宿まで引いてくるように命じたものとみられています。また、馬が旗本直轄領の農耕馬であることはもちろん、領主が見分して購入を決めていることから、領主が領地に入部した際の巡視用の馬としての利用も予定されていたのではないかと考えられています。

 

西尾市の民芸品「吉良の赤馬」


『吉良家日記』を監修した平井誠二さん(大倉精神文化研究所)は西尾市吉良町で昨年12月14日に開かれた岩瀬文庫講座で、義冬の書状には触れていませんが、「赤馬伝説はひとり義央公の事績としてとらえるのではなく、高家吉良氏3代にわたる領地支配のあり方が集約されて伝説になったのではないか」と言及されました。義冬の書状は赤馬伝説を史実に変える可能性を秘めた史料と言えそうです。