山形県米沢市の米沢市上杉博物館で11月24日まで、特別展「忠臣蔵の真実~赤穂事件と米沢~」が開かれています。江戸城松の廊下での刃傷事件(元禄14年3月14日)から赤穂浪士の吉良邸討ち入り(元禄15年12月14日)に至る元禄事件があった当時の米沢藩4代藩主・上杉綱憲は、西尾市吉良町の一部を領した吉良上野介義央(こうずけのすけよしひさ)の実子でした。

 

 

上杉家と吉良家は、①上杉家から吉良家への嫁入り②吉良家から上杉家への養子縁組③上杉家から吉良家への養子縁組―の三重の縁で結ばれています。そうした縁が実を結び、今年12月に西尾市で行われる市制60周年記念式典の席上、米沢市と西尾市の友好都市提携が締結されます。今回の特別展はそれとは無関係に企画されたものですが、奇遇にも友好提携を記念する形になりました。

 

特別展は上杉・吉良両家の関係や吉良義央の人物像、刃傷事件に対する米沢藩の対応などについて迫る内容になっています。西尾市からは市の指定文化財である「吉良上野介所用・茶道具一式」(華蔵寺蔵)や「三十六歌仙絵巻」(花岳寺蔵)、「木造七面大明神」(真正寺蔵)などが出品されています。こうした遺物公開で元禄事件の真実が米沢・西尾両市民の共通認識になればいいなあと思います。

 

 

【お国入り①】義央は「1677年」の1回

 

さて、西尾市吉良町では「吉良さん(義央)は名君だった」と伝わっています。赤馬(農耕馬)に乗って領内を巡視したとか、黄金堤を築いて領民を水害から守ったとかいった伝承が残されています。しかし、今年春に出版された『吉良家日記』 には、それを裏付ける記述を含めて領地吉良に関する記録がありません。そもそも、高家吉良家は江戸住まいが義務付けられ、領地吉良は代官に任されていました。


それでも最近の研究で、東海道池鯉鮒宿(知立市)の本陣「御宿帳」から、義央が1667、74、76、77、79、80、83、85、86、87、89、90、91年の計13年分(往路と復路で25回分)、池鯉鮒宿で休憩した記録があることが分かりました。さらにその中から、義央が37歳だった77年11月に京都へ臨時の上使を務めた帰り、初めて岡山(西尾市吉良町)に立ち寄ったことが分かっています。

 

 

江戸から京都は東海道で約125里(500㎞)あり、当時の旅人は15~20日程度で歩いていたと考えられていますが、「吉良家日記」によると、将軍の名代として京都に行く際、義央は供と一緒に10日余りで移動していたようです。江戸に向かう義央一行に四日市で出会ったドイツ人医師ケン ペルは、「義央は一日の旅程を速くするよう命令を下していた」と記録しています。これでは吉良に立ち寄るのは難しそうです。

 

 

【お国入り②】臨時上使の帰路に可能性

 

『吉良家日記』を監修した平井誠二さん(大倉精神文化研究所)は、同書の解題で「吉良家日記に記録のある年頭上使では京都からの帰りに領地の吉良に立ち寄ることはできなかったであろう。しかし、帰路をそれほど急がなくてもよかった臨時上使については立ち寄った可能性が指摘できよう。領地吉良への立ち寄りが唯一確認されている77年11月は臨時の上使を務めた帰りであった」と考察されています。

 

平井さんは年頭上使を務めた年や臨時上使でも立ち寄りが困難とみられる年を指摘した上で「2例目発見への道筋はかなり絞り込まれた。東海道諸宿の宿帳の調査研究がさらに進めば、京都や伊勢への御使の帰路、義央が領地へ立ち寄った年をさらに発見することができるかもしれない」と期待を寄せてみえます。「赤馬」「黄金堤」が伝説でなくなる日が来るかもしれませんね。