【吉良義昭】 で触れましたが、吉良義昭(よしあきら)と松平好景(よしかげ)が西尾市吉良町岡山付近で戦った「善明堤(ぜんみょうづつみ)の戦い」は、1561(永禄4)年4月15日にあったというのが通説です。しかし、中世吉良氏を研究している小林輝久彦さん(戦国史研究会)によると、1556(弘治2)年にあったとする新説が同研究会の澤田善明さんから提唱されているということです。今回は善明堤の戦いが起きた年代をめぐる小林さんの考察を以下に紹介したいと思います。

 

【家忠日記】1578年に「好景二十三回忌」


善明堤の戦いは、1560年の桶狭間の戦いによる今川義元の敗死後、織田信長と同盟を結んだ岡崎城主松平元康(徳川家康)が、西三河の制覇を目指して西三河の今川勢力を駆逐する過程で、元康配下の深溝(ふこうず)松平大炊助好景と、今川方の東条城主吉良義昭が61年4月15日、中島城(岡崎市中島町)から鎧ヶ淵(西尾市吉良町岡山)で激突し、吉良勢の伏兵に遭った好景は敵中を切り抜けて脱出したものの、善明の西の原の丹過(西尾市下永良町鎮守)で補足され、44歳で戦死したとされています。

 

善明堤の戦いがあった「鎧ヶ淵古戦場」(西尾市吉良町)

 

このことは、好景の孫・家忠の直系の孫に当たる忠房(1619~1700)が、1641年12月に幕府へ提出し、43年9月に将軍家光へ上程された「寛永諸家系図伝」の深溝松平系図で、好景の戦死を1561年4月15日と記していることが元になっています。また、家忠の五男・忠隆の子・忠冬(1624~1702)が、1511年から1616年までの徳川家草創の歴史を編年体で著述した「家忠日記増補」(1663年ごろ成立)にも、同様に記されています。

 

一方、澤田さんの指摘によると、好景の孫・主殿助(とものすけ)家忠の日記である「家忠日記」の1578(天正6)年3月4日条に、好景の二十三回忌の追善供養の記事があり、逆算すると1556(弘治2)年に没した可能性が高いということです。深溝松平氏の宗旨である曹洞宗の追善法要は初七日から三十三回忌まで13回の法要があり、二十五回忌が一般的ながら二十三回忌を行った例もあるそうです。澤田さんは「孫が祖父の年忌を間違えるわけがない」と強調しています。

 

このほか、善明堤の戦いを1556年とする史料としては、比較的早く成立した編さん物である「松平記」があり、1556年4月としています。また、吉良側の史料である「養寿寺本吉良系図」の「義安」の項も「弘治二年」としています。1556年は吉良氏、松平氏にとってどのような時期だったのでしょうか、両者が争って好景が戦死するような状況がありえたのでしょうか。

 

【1556年】「今川方」松平氏、「反今川方」吉良氏

 

当時の三河を見ると、1549年に安城城を尾張織田氏から奪取した駿河今川氏は、三河各地で検地を行うなど領国化を進めました。これに対して55年ごろに三河国内で今川氏に対する反乱が多発します。青野松平氏、大給松平氏、作手奥平氏、長篠菅沼氏、牛久保牧野氏、上野酒井氏、そして吉良氏という東西三河の広範囲に及ぶ反乱で、「弘治合戦」とも呼ばれています。このうち、上野酒井氏と吉良氏を除く諸氏は一族が今川方と反今川方に分裂して抗争していました。

 

今川義元木像(名古屋市緑区・長福寺蔵)

 

松平氏は加茂郡松平郷(豊田市松平町)に発祥して以降、十四松平と呼ばれる庶家が分立して栄えましたが、宗家の地位をめぐる一族内の対立がありました。駿河今川氏の後援を得て宗家の地位を固めた松平広忠が1549年、家臣に殺されて嫡子・竹千代(徳川家康)が今川氏の人質になると、庶子家の中には動揺が広がり、中には今川直臣として出仕する者も現れました。その典型が、のちに吉良荘東条に進出して東条松平氏を起こす青野松平氏でした。

 

青野松平氏は岡崎市上青野町にいた庶家です。当主の甚二郎が1551年、今川氏への逆心を見せたため、その弟の甚太郎忠茂がこれを今川氏に報告するとともに、兄・甚二郎を尾張国に追いました。以後、忠茂は今川直臣として大給城の戦いや村木砦の戦いに転戦します。また、青野松平氏の本領は饗庭(あいば=西尾市吉良町饗庭)だったらしく、1551年当時、饗庭を実効支配していた東条吉良氏と鋭く利害が対立していたことが分かっています。


深溝松平氏はどうかと言うと、好景は1554年2月9日付で、子・連忠(のち伊忠)と連署で菩提寺である深溝の本光寺に寺域周辺の下地(地頭などが持つ実際の土地の支配権)を寄進しています。同年の10月14日には今川義元が本光寺に寺領を安堵して同寺を守護不入の地(国の守護使の検断などを拒否できる地)とする安堵状を与えています。今川氏が深溝松平氏の菩提寺の寺領を安堵していることから、深溝松平氏も今川氏の従属下にあったと考えられます。

 

 

吉良氏は宗家が吉良荘西条(旧西尾市・旧一色町)、庶家が吉良荘東条(旧吉良町・旧幡豆町・岡崎市南部)を支配していましたが、1546年以降の駿河今川氏による三河進攻に際し、宗家が尾張の織田氏に加担したため、今川氏によって49 年9月に西尾城が攻略されます。今川氏はこの反逆を主導した家臣を粛清することで、吉良宗家の当主をそのまま西条に置いたようです。

 

吉良義安木像(西尾市吉良町・華蔵寺蔵)

 

弘治年中(1555~57)の吉良宗家の当主は義安でした。55年10月、義安は再び今川氏に反逆します。義安は弟・長三郎(詳細不明)を緒川(東浦町)の水野氏に人質として送って加勢を求め、水野氏の軍勢が西尾城に入りましたが、今川氏の軍勢は直ちに西条領に乱入し、吉良荘内をことごとく放火して200人余りを討ち取りました。57年10月には今川氏家臣が西尾城で在番していることから、義安は駿河に連行されて幽閉され、西条領は今川氏の直轄領になったと考えられます。

 

このように、1556年当時は松平氏が今川方、吉良氏が反今川方に分かれており、1561年の松平氏と吉良氏とは正反対の側にあって対立していました。

 

【松平好景】中島郷の吉良氏家臣を滅ぼす


では、吉良氏と松平氏が争った形跡はあるのでしょうか。善明堤の戦いの舞台の一つが中島城のあった中島郷ですが、中島郷は東条吉良氏の支配下にあったらしく、家臣の由良氏が領主だったとされています。由良氏は子孫が持つ系譜類によると、鎌倉初期に三河国守護だった安達藤九郎盛長の子孫という名家で、室町時代後期の文明年中(1469~86)に吉良家の旗下になりますが、吉良義昭と松平元康の間が不和になり、深溝松平好景に滅ぼされたと記されています。

 

 

好景に滅ぼされた由良氏当主について、系譜類では「孫八郎家定」「平八郎家宗」「孫八郎重光」と混乱しています。戦死の年号については一部に「弘治二年(1556)春」とするものがあります。実は1549年9月に今川氏が西条吉良氏を攻撃するに当たり、降伏を勧告する矢文を送っていますが、その中で、今川氏が織田氏討伐のために渡・筒針に出向いた時に吉良氏が兵を安城城に移したこと、その後に中島を「奪補」の時も兵を行路半ばまで出したことを非難する箇所があります。

 

ここにある「中島」は中島郷を指すと思われ、渡・筒針の戦いは一般的に1547年9月28日のこととされていますので、この中島奪補の戦闘は1547年から49年9月の間に発生したことになります。また、前述した今川義元が本光寺に与えた安堵状には、中島郷にある寺領について「領主の寄進状に任せて」安堵すると記されていることから、1554年の時点ですでに今川氏は吉良氏に替って中島郷の土地を支配していたことになります。中島郷の土地を寄進した「領主」とは由良氏のことではないでしょうか。

 

だとすれば、由良氏が松平好景に滅ぼされたのは、1556年春ではなく、前述の通り47年から49年9月までの間で、「春」という文言にこだわれば、48年春か49年春ということになります。48年だとすれば、3月19日の小豆坂の合戦や4月15日の耳取縄手の戦いとの関連が考えられそうです。このように、好景による中島城主由良氏の攻略は、松平宗家と行動を共にする今川方の、反今川陣営だった吉良氏への軍事行動と考えられます。

 

 

その後の中島城は今川方の板倉弾正(だんじょう)が入ったとされていますが、弾正は謎の人物で系譜が不明です。史料上では実名が康忠で、今川氏から渥美郡細谷郷(豊橋市細谷町)を与えられていたことが分かっています。1561年春ごろに中島城を松平氏に追われ、岡城(岡崎市大平町)に入城したものの、そこも攻撃を受けたので作手に逃れ、62年9月29日の八幡(豊川市八幡町)合戦で今川方として松平氏と戦い、戦死したと伝わっています。

 

実は由良氏子孫所有の一部系譜類には、弾正が好景に滅ぼされた「由良宗家」の子だとしているものもあり、真偽は不明ながら由良氏と板倉氏が親戚関係なのは事実らしいです。すると、1548年ごろに中島城が落ち、由良氏が没落した後、中島城には今川家臣の好景が入っていたが、1556年に織田方の吉良氏と争って戦死したので、今川氏が城を回復したのちに今度は今川家臣で、かつ由良氏とも血縁関係に当たる板倉弾正が替わって入城したと整理できるのではないでしょうか。

 

【考察結果】どちらも十分成立しうる

 

善明堤の戦いは1561年か1556年か―。時代背景を詳細に考察してきましたが、結果はどちらも十分成立しうることが判明しただけで、いずれが正しいかを決することができませんでした。しかし今後、松平家忠が菩提寺の本光寺で行ったであろう好景の二十三回忌か三十三回忌の、あるいは板倉勝重が行ったであろう好景と共に戦死した父・好重の三十三回忌の拈香法語(法要や読経などで導師が香を拈じて唱える言葉)などの発見で成し遂げられるでしょう。