西尾市西浅井町に「浅井西(あざいにし)城」跡があります。県立西尾東高校から東北東約1.5kmにあり、「土豪屋敷跡土塁」として西尾市の史跡に指定されています。市教委によると、土塁は現在、個人宅の敷地約1万㎡を囲む形で現存し、北側には約10mの堀が残っています。また、東側の丘陵の中腹には所縁の八幡宮が祭られているということです。

 

浅井西城跡の土塁

 

西尾市資料館が2015年4月4日~6月28日に開催した企画展「西尾の中世城館~わが町と城館~」の図録で、浅井西城の現況については「高さ約5㍍の土塁が南の一部を除いて残っている。丸屋敷と言われるように1884(明治17)年の地籍図からは、円形に築かれた様子が分かる。土塁の北西の隅は高くなっており、現在は社が祭られているが、櫓台と推定されている。この部分にのみ土塁に折れが見られる」とあります。

 

また、「地籍図によると虎口は、南と北の2カ所にあり、南は現在破壊されているが、北側の虎口は一度曲がって土橋を渡る様子がよく残っている。北側に堀跡が残っているが、地籍図によるとかつては、全て堀に囲まれていたと推定される。周囲には古城、城子、城東など城館に関連した地名が残っている。現在、城の遺構の残る場所は字宮下で、字古城に遺構は認められないが、地名から周囲に城に関係した施設があったと推定できる」とのことでした。

 

明治の地籍図(右)は円形だが、近年の測量図(左)は方形

 

城主については、「岡崎領主古記」の記述から、浅井西城は徳川家康の祖父・松平清康の弟・康孝の居城と伝えられています。西浅井町の源空院の「御由緒御糺書上一件」から、康孝は当所の丸屋敷(浅井西城)に在城していたようです。

 

城の現況については「中世の城館遺構がほぼ完存している貴重な城だ。2014年度に測量調査を行った結果、方形に近いことが判明した。巨大な土塁は居館というよりも、戦国期の在地領主の城館の好例だ」と評価しています。

 

土塁上から見た堀の跡

 

【城主】松平康孝とは・・・?


松平康孝については、確実な史料がありません。『寛永諸家系図伝』には、十郎三郎と称し、法名を礼翁善忠と号することが記されているだけだそうです。徳川氏の遠祖から家康までの史料を集めた『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』には、三木(みつぎ)郷=岡崎市=を譲られ、居城地である浅井村=西尾市=に浅井寺を開基したことが記されているそうです。1542年3月18日の死去とされています。

 

源空院にある松平康孝の墓


浅井西城跡の北西約400mに、浄土宗の寺「源空院」があり、1521年から浅井西城主を務めた康孝が、菩提寺として23年に建立したと伝わります。墓地には康孝の墓があります。境内にはシダレザクラの古木が3株あり、特に山門横の桜は根回り2.5m、高さ8mで、樹齢は250年以上とも。西尾市の保存樹木に指定されています。毎年、花が見頃になるとイベントが開かれ、多くの市民でにぎわいます。

 

源空院の山門

 

【余談①】移築された「岡崎城の門」

 

浅井西城跡のすぐ北には浄土真宗の宿縁寺があります。こちらも西尾市の保存樹木であるシダレザクラ(高さ6.2m、幹周1.7m)が有名です。寺は平安時代初期の802年に開かれたそうです。山門が明治初期に岡崎城から移築されたものだということで立ち寄りました。山門脇にある案内板は文字部分の塗料がはげ落ちていましたが、「宿縁寺薬医門」とありました。丹念に見ると次のような説明文でした。

 

岡崎城から移築したと伝わる宿縁寺の山門

 

「岡崎城北門(二ノ門)にあった(建立年月日不明)建立時の詳しい史料はないが江戸時代初期のものである。明治六年(西暦一八七三年)廃城の際に、当山に譲り受ける。薬医 門は、本柱の後にある控柱で支えられた屋根を前方に持ち出した側面の姿が、非対称形になっている。特に上部にある太瓶束(だへいつか)・男梁(はり)・女梁の彫刻は、薬医門の歴史を象徴する珍しいものである」


薬医門を見た先生たちの間からは、本柱の下部に木材を継ぎ足したような形跡がある点、屋根の構造が通常の薬医門とは異なる点、瓦のふき方が「本瓦ぶき」ではない点、丸瓦に徳川家の一門親藩以外は使えなかった「丸に三つ葉葵」の紋がある点などが指摘されました。「全国的には城郭内にある武家屋敷の門を譲り受け、 『城門』と紹介しているケースもある」そうです。ご住職のお話を聞こうと試みましたが、あいにくご不在ということで詳しい由来は分かりませんでした。

 

東海道新幹線沿いにある合歓木城跡

 

このあと、岡崎市に足を延ばして、康孝の兄・信孝の居城だった合歓木(ねむのき)城跡=合歓木町=と、東条松平氏の祖とされる義春の築城と伝わる青野城跡=上青野町=を訪れました。合歓木は宅地や畑、青野は寺院や宅地になっており、遺構はありません。青野城跡の来迎院には「松平義春の墓」がありますが、吉良氏研究の先生は「松平忠茂のものではないか」とされています。

 

【余談②】謎の父子、松平義春・忠茂

 

松平義春については松平氏第5代当主・長親(長忠)の四男とされていますが、生存中の同時代史料がなく、子の松平忠茂の関連文書で父について「右京亮(うきょうのすけ)」と記されているだけで、実名が義春だった確証はありません。忠茂の父については、松平氏第4代当主・親忠の子である張忠(はるただ)が右京亮を称したとする文献があるので、義春ではなく張忠とみる説もあります。

 

松平張忠の系譜をめぐる疑義(執行哲央氏『西尾戦国領主伝』より)

 

『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』では義春が東条を称したとありますが、義春の家系が東条(西尾市吉良町)に入るのは、孫の家忠の時になります。また、両書は1556年2 月20日に三河国日近(岡崎市桜形町)で義春が討ち死にしたとしていますが、討ち死にしたのは子の忠茂であることが、今川氏の菩提寺である観泉寺(東京都杉並区)の所蔵文書の研究で分かっています。

 

青野城跡の来迎院/来迎院にある松平義春(?)の墓

 

前回の記事【松井忠次】 でも触れましたが、青野に所領を持った忠茂の兄・甚二郎は、尾張織田氏に通じて今川氏と敵対したため、今川義元によって追放されます。その後、松井忠次らに擁立された忠茂が青野松平氏の家督を継ぎました。忠茂は今川氏の直臣として1552年に織田氏と通じた大給松平氏を攻め、54年には今川氏の尾張侵攻の前線となる村木砦を守るなどの戦功をあげました。

 

青野城跡の来迎院

 

しかし、56年2月の日近合戦で奥平氏を攻めた際に討ち死にします。忠茂は法名を来迎院殿貞厳顕松大居士と号し、青野城跡の来迎院に葬られ、後に法応寺(西尾市吉良町・廃寺)に分骨されました。来迎院を訪れたところ、本堂内で忠茂の法名が書かれた位牌を2つ見つけました。境内にある墓は吉良氏研究の先生がおっしゃる通り、義春ではなく忠茂と見るのが自然かもしれません。

 

来迎院本堂にあった松平忠茂の位牌