【桂岩寺】 を後にした私たちは、南東約400㍍にある西尾市下矢田町の養寿寺(ようじゅじ)に向かいました。毎年3月の最終日曜日に開かれる釈迦の涅槃会(ねはんえ)は、「矢田のおかげん」と呼ばれ、江戸時代から広く人々に親しまれてきたそうです。近年は参拝者の減少から説教やイベントに力を入れ、往時のにぎわいが取り戻されつつあるようです。

 

養寿寺本堂

 

桂岩寺と同じく浄土宗西山深草派のお寺で、806(大同元)年、勤操阿闍利(ごんそうあじゃり)によって開かれ、当初は天台宗で したが 、1461(寛政2)年、年彰空宗永上人によって再興され、この時浄土宗に改宗されたということです。徳川家康の大伯母「矢田姫」の墓と伝わる石塔があり、江戸時代には家康とのゆかりを色濃くして栄えていったようです。

 

養寿寺山門

 

お寺の伝承では、「矢田姫」は【吉良義安】 の夫人で、寺内に埋葬された関係から、1602(慶長7)年に徳川家康から36石の朱印地(領地)を賜ったそうです。また、そうした由緒からか、吉良氏の系図が所蔵されておりまして、吉良氏研究者の間では必ず調査対象になり、重宝がられる一方で、記述内容をめぐって物議をかもすことがしばしばあるようです。

 

【矢田姫①】松平氏の娘に3人いた!?


「矢田姫」とはどんな人だったのでしょうか。お寺に伝わる由緒だと、松平信忠(家康の曽祖父)の娘として生まれ、東条城主吉良持広に跡目がなかったため、西尾城の吉良義安を養嗣子とし、矢田姫を養女にした。矢田姫が義安の妻になり、義安が幽閉先で亡くなると、一子・義定を連れて東条に戻った。矢田姫は再婚せず、晩年は仏門に帰依して、大永6(1526)年4月20日に亡くなった―のだそうです。

 

矢田姫の墓

 

先生の一人が西尾市岩瀬文庫にある「参陽松平御伝記」と「参河徳川歴代」という江戸中後期(?)の書物に基づいて、松平氏と吉良氏の関係を系図にまとめられました。すると、「矢田姫」が3人いるではありませんか。まず家康の大伯母に当たる松平信忠の娘、続いて信忠の子・清康の娘、もう1人は清康の子・広忠の娘です。

 

まず、家康の大伯母だったとすると、夫とされる義安は1536年生まれと考えられていますから、矢田姫の亡くなった年が義安の生まれる10年前になり、関わりを持ちようがありません。清康の娘だったとしても、清康の没年が1535年なので、義定の生年が1564年だとすると、矢田姫は30歳以上で義定を生んだことになります。当時の常識では考えにくい年齢です。
 

【矢田姫②】法号から判明した“正体”

平野明夫さんは『三河松平一族』で、広忠の息女に多劫(たけ)姫、市場姫、矢田姫の3人がいて、特に市場姫については「1561年に荒川義広に嫁いだ」とされる点を「信用できない」とし、荒川氏が吉良氏の一族だったことから「義定の母は市場殿であった可能性」を指摘してみえます。姉妹の矢田姫は1562年、長沢松平康忠に嫁ぎ、1603年に57歳で亡くなり、山中法蔵寺に葬られたそうです。

養寿寺に眠る「矢田姫」の法号は「養寿院殿玉林良久大 禅定尼」です。実は同じ法号の女性が松平氏第5代当主長忠(清康の祖父)の娘にいたことが分かっています。長忠の娘は室城にあった吉良氏の老臣富永忠安の妻になりました。これは西尾市大給町の妙満寺にあったと思われる「富永氏景図書」の写しが見つかって判明し、同市の「鶴寿会郷土史研究会」が1992年9月のローカル紙「三河新報」に発表されました。

 

矢田姫の正体を追った新聞連載


「矢田姫を追う」と題した同研究会の発表(連載7回)によると、岡崎城を追われた松平広忠が【室城】 に入った1536年9月は矢田姫の没後10年でしたが、夫の富永忠安は広忠の義理の大叔父に当たり、妻の血筋につながる者として広忠を厚く保護したのは当然だとされています。また、忠安の子で「伴五郎」として知られる忠元は1537年生まれで、矢田姫の子ではないということです。

 

【吉良氏系図】子孫が養寿寺に弟子入り

 

矢田姫の正体は突き止められました。家康の「大伯母」ではなく「ひいおば」でしたが、吉良義安の妻ではないとすると、なぜ養寿寺に吉良氏の系図があるのかという疑問が生まれます。軸装された系図を見せていただいたところ、清和天皇から始まり、赤穂浪士に討たれた義央の兄弟の子孫である近代の義道氏で終わっています。書かれている紙は新しく、義央の後から筆跡が変わっているように見えます。

 

養寿寺鐘楼門

 

歴代住職などの話を総合した副住職さんの私見では、財産をお酒に変えて借金苦だった義道氏が養寿寺に駆け込み、「矢田姫と吉良氏祖先の菩提を弔いたい」と25代住職の明空師 に弟子入りし、自分の持っていた吉良氏系図を書き直す作業を進めたものの、志半ばの45歳で亡くなり、明空師が弟子の遺志を引き継いで義道氏の事績までを大正時代に完成させたのではないか―と推理しています。

 

系図の原本の所在は分からないそうですが、現在残されている系図では、吉良持広の娘の註が一度消された上で、「義安内室」「実は清康妹」と書かれており、「吉良義安の妻である矢田姫は家康の大伯母」として栄えてきた養寿寺にとって、“不都合な真実”が書かれていたのではないかと思われます。とはいえ、子孫が最後まで売らずに所持していた系図だとすれば、記述内容の正確さが期待できます。また、養寿寺が家康ゆかりの寺であることにも変わりなく、寺の所々にある葵の紋は今日も威光を放っています。

 

矢田姫が使っていたとされる火鉢