道には幅がある ~ 「正欲」感想 (ネタバレあり) | Suzunari の花たちへ

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稲垣吾郎さん、新しい地図、SMAPが大好きです。

映画「正欲」素晴らしいです。個人の内面をどこまでも深く掘り下げると同時に個人と個人の繋がり、個人と社会の関わりも描いた奥行きの深い作品だと思います。いわゆる企業物や政治物とも違うタイプの社会派作品。吾郎さんにとって新たな節目になる作品ではないでしょうか。


ただ感想を挙げる前に少し私自身の話をさせてください。

私は子どもの頃母や同級生に「変わっている」と言われることが多かったです。母には「変わっているのは良くないから普通にしなさい」と言われましたがどうすれば普通になるのか分からず、学校で周りに合わせようとしてもますます「変わっている」と言われていました。一番困ったのは「普通」って何なのか誰も教えてくれなかったことです。いろいろ悩みましたが大学に入るとき「普通にしようとしても変わっていると言われるのだから、無理に周りに合わせるのはもうやめる」と決め、それ以後はあまり気にしないことにしました。陰では「あの人変わってる」と言われていたと思いますが、なるべく自然に(でもできる限り思いやりを心がけて)人と接しようとしてきたつもりです(失敗は多々ありましたが)。


そんな経験をしたので私は小説「正欲」を読んだとき「読む前の自分には戻れない」ほどの衝撃は正直受けなかったと思います。それでも夏月や佳道や大也のように「地球に留学している」とか「(人間の)根っこの部分で終わってる」とか感じたことはないので、一応社会に適応できているのでしょう。
それどころか、もし自分の子どもが不登校になったら啓喜のように何とかして学校に行かせようとするでしょうから、私も啓喜と同じ側の人間だと思います。

誰にでも内心の自由はあります。何が好きであろうと何に性的な魅力を感じようとそれ自体は自由です。でも、それがごく少数の人だけにしか理解されないことだったら?更に言えば社会では悪いこととして禁止されているとしたら?
そういう人たちは他者とどうつながり社会の中でどう生きていったらいいのでしょうか。

「正欲」ではそのテーマを「水に欲情する」指向を持った桐生夏月、佐々木佳道、諸橋大也、ある出来事がきっかけで男性恐怖症になった神戸八重子、そして「人は正しく生きるべき」と信じる検事の寺井啓喜を軸に描きます。
「水に欲情する」性的指向を持つ夏月、佳道、大也たちは「マイノリティの中からもこぼれ落ちてしまうマイノリティ」の象徴だと思います。彼らからすればLGBTQの人たちですらマジョリティなのです。人は自分の目に見えない物の存在に気づくことが出来ません。「存在すら気づかれないマイノリティ」の孤独を映画の前半では丁寧に描いています。例えば冒頭の佳道の社員食堂のシーン、次の夏月の回転寿司のシーン。佳道も夏月も本当にうつろな目をしています。各方面で言われていますが、磯村勇斗さん、新垣結衣さんの「死んだ目」が素晴らしいです。

そんな二人は中学の時にある出来事からお互いが似た指向を持っていることを知ります。このシーンの蛇口から吹き上がる水の美しさ。全身ずぶ濡れになり恍惚とする二人の中学生のみずみずしさ。二人は一言も言葉を交わさないのにお互いを理解したのです。しかしまもなく佳道は転校し以後音信不通に。大人になった夏月は故郷広島のショッピングモールで販売員をしながら人と関わりを持たず、夕飯も回転寿司で済ませなるべく両親とも顔を合わせないようにしながら息を潜めるようにして生きていました。
一方佳道は両親の死をきっかけに広島に戻り同窓会で夏月と再会。お互いに秘密を共有する二人はだんだん距離を縮めていき、佳道は
「生き延びるために手を組みませんか」
と夏月に形だけの結婚を申し込みます。夏月はそれを受け入れ、二人は横浜で新しい生活を始めます。

啓喜は横浜地方検察庁の検事。小学生の息子・泰希が不登校になった事に悩んでいますが、どうやったらまた学校に行くようになるかだけを考えているようです。そのため、泰希が動画配信をやりたいと言うと反対し、息子の自由にさせてやりたいという妻と衝突します。
沢山の犯罪者を見てきてちょっとしたきっかけで道を踏み外す怖さを知っている啓喜が
「あの歳で道から外れた生き方をさせられないよ」
「社会のバグは本当にいるの、悪魔のような奴は本当にいるんだよ、それが現実なの!」
と言うのはもっともですが、それが妻には「不登校の泰希は社会のバグ」と言っている様に聞こえてしまうのです。結局泰希は同じ不登校の男の子と二人で動画配信を始め、妻もそれを応援し、啓喜は家庭の中で孤立していきます。
この「正しさを振りかざす度に空回りする」感じを吾郎さんが巧みに演じています。いや、演じようとすればわざとらしくなってしまう役柄に自然な説得力を持たせています。だからこそ嫌な人に見えてしまいますが、それも俳優稲垣吾郎の実力がなせる技でしょう。

大也は大学でダンスサークルに所属し学園祭で準ミスターに選ばれるほど目立つ存在ですが誰にも心を開きません。同じゼミの八重子は男性からの視線に恐怖を感じるのですが、不思議なことに大也にはその恐怖を感じないため、徐々に大也に惹かれていきます。
佳道と夏月は自分たちが好んで見る動画チャンネルに必ず現れる人物が自分たちと同じ指向を持っていると気づきます。

「この人、一人でないといいね」「誰も一人でないといいよ」
この二人の会話がこの作品のテーマになっていきます。

佳道は「SATORU FUJIWARA」と名乗るこの人物にダイレクトメッセージを送り、お互いに「水フェチ」であると打ち明けます。この「SATORU FUJIWARA」こそ大也で、意気投合した二人は会ってお互い好みの動画を撮りあおうと相談します。さらに大也は同じ指向の人物をもう一人知っているといい、佳道が「パーティ」と名付けた撮影会にその人物を連れてきますが、矢田部というその男は小児性愛者でもあったのです。
このあたり、SNSの怖さを感じました。色々な人と簡単につながれますが、どんな人とつながるか分からず、場合によっては事件に巻き込まれることも…。
そして佳道と大也は、裸の男の子が水遊びをしている動画を矢田部と共有していたため、児童ポルノ所持の疑いで逮捕されてしまいます。

この「パーティ」の前日、八重子は大也にゼミ合宿に行こうと声をかけますが拒否され、それがきっかけで激しい言い合いになります。大也は八重子が自分の心に踏み込んでくるように感じ「なんで自分が理解する側だと思うんだよ、あんたが理解できない人間だっているんだよ!」とはねつけます。
それに対して八重子は「それでも理解したいと思う、諸橋くんが大事だから」と自分の気持ちを伝えます。「ごめん、こんな私が一番キモいよね」と言う八重子に大也は
「いや…あっていけない感情なんてこの世にないから」
と答えます。
この二人の会話もこの作品の軸になっています。このシーンの二人が本当に素晴らしくて、恋愛感情にならなくてもいいから二人の距離が縮まるといいなと思いました。だからこそ大也が事件に巻き込まれ逮捕されたのが悲しかったです。

夏月と佳道の共同生活(ルームシェア?)を舞台挨拶の司会者さんは「偽装結婚」と呼びましたが、男女の愛情はなくても信頼はあって、何より二人の目が輝いて幸せそうなので私は微笑ましく感じました。

一方、寺井家は崩壊していきます。自分が信じる正しさを妻子にも求める啓喜は妻の不安を受け止められず動画配信を手伝ってもらうため妻がボランティアの大学生を家に呼んでいることにいらだち、妻は動画配信を始めてから息子が元気になってきたのにそれを認めない啓喜にいらだち、亀裂は決定的になっていきます。
側から見ると、散らかしたおもちゃを片付けさせないのは母親として甘すぎじゃないかとか、啓喜も風船を膨らませられなかった時言い訳せずに「お父さん出来ないや、ごめん」と言えば息子の心が少しは開いたのにとか思いますが、そういう小さな事の積み重ねで家庭って壊れていくのですね。怖い…。

逮捕された矢田部、佳道、大也はそれぞれ啓喜の取り調べを受けます。この時の啓喜は容赦なくて怖いです。その容赦のなさは啓喜自身が息子を持つ親であることからも来ているのでしょう。大也は「僕は水が好きなんです」と本当のことを言いますが、啓喜に「でたらめ言うな!」と一蹴されてしまいます。「存在すら気づかれないマイノリティ」はどうすればその存在に気づいてもらえるのでしょうか。
そして、単なる性的指向と犯罪の線引きはどこか。
実は小説でも映画でもその点についてははっきりと描かれていません。ヒントになるのは佳道が取り調べの時言った
「子どもを傷つけたことはありません」
という言葉でしょう。自分の指向を現実世界で実行したとき他者を傷つければ犯罪になる、つまりそれが道を踏み外すということだと思います。

夏月が啓喜から事情聴取を受けるシーンがこの映画のクライマックス。まさに息をのむ緊迫感です。これは是非映画館で見ていただきたい!
夫が逮捕されても夏月が「いなくならないから」と静かに宣言(?)するのに対し、常に正しさを求めた結果妻子が「いなくなってしまった」啓喜が孤独を自覚するラストは切ないです。このラストの啓喜の表情を見るだけでもこの映画を見る価値はあります。
この後啓喜はどう生きていくのだろう、と思わずにはいられません。



「あの歳で道から外れた生き方はさせられないよ」と啓喜は言いました。

でも私は思うのです。
「道には幅がある」って。

道の真ん中にいなくてもいい、端の方でも、なんなら路肩でも(夏月や佳道や大也のように)、とにかく道の幅の中にいられればOKじゃないかと思います。そして道で出会った誰かと繋がって、心を通わせることが出来れば人は生きていけるのではないか、と。

気づかれなくても認められなくても「多様性」は存在している、そのことを心に留めて。



「正欲」は大きな絶望とその向こうに微かに見える希望を描いた映画だと思っています。