こんにちは。

日本では「八百万の神」(森羅万象、あらゆる自然や自然現象に神が宿っており、その数は無限にある)という概念があります。多神教の一つです。簡単に言えば自然崇拝であり、これを無条件に肯定して特別視してる人が見られますが、無益どころか偶像崇拝は聖書に書かれた神の律法に違反する罪であり、してはいけないことです。今回の記事では、日本人にとって身近な「八百万の神」信仰の致命的な問題点を挙げ、聖書に書かれた神(イエス・キリスト)のあらゆる御言葉やそれに基づく教えこそ日本人にとって無関係ではなく最も必要なのだと理解してもらう意図があります。

 

当記事では、偶像崇拝が神の律法で何故禁じられてるかの考察を述べた上で、八百万の神の概念を肯定する人々の問題点を挙げています。背景を考えれば、神の律法の意義が見えてくるはずです。日本や日本人の問題点をある程度感じながらも、その根本要因が分からない人にとって、根本的な要因を理解して解決策を考えるきっかけに繋がることを期待しております。

 

数か月前に、イスラム教徒の男が、兵庫県の神社で参拝客に「アラー以外に神はいない等」と発言し、神社の賽銭箱や近くの地蔵を破壊した事件がありました。こちら(J CASTニュース)にあるように、日本ムスリム協会がイスラム教のコーランを引用して声明を出しました。事件を起こしたムスリムの男の真意は分かりません。少なくとも実感したのは、イスラム教含めた一神教に反発する人が増えたことです。以前から、イスラム教徒は欧州各地で移民となって現地で問題を起こしたり、日本でもやたら土葬に拘るイスラム教徒が頑なに土葬を要求したりと、現地の人々のことを考えず厚かましい姿勢故に、少なくとも日本国内でイスラム教への印象は良くないでしょうね。イスラム教のみならず、ユダヤ教、カトリック教やプロテスタントや正教会に代表されるパウロ教といった一神教に反発する声も見られます。世の中で「一神教」に分類される宗教を擁護するつもりは断じてありません。詳しくは後程。しかし、そのイスラム教はじめ一神教への非難と共に、日本での「八百万の神」の考え方をやたら持ち上げる投稿も結構な数見られました。これには疑問でしかありません。八百万の神信仰を持ちあげる人々は、その問題点には一切目を向けず、ただ他宗教を感情的に目の敵にしてるようにしか見えませんでした。多くの人は宗教に関して無知であり、自称真相論者であっても例外ではありません。波及して聖書(聖書は宗教ではないのに)やキリストに対する謂れ無い中傷や妄想がどんどん広まって、福音伝道に支障が出たりする前に、あらゆる誤解を解き、正当な根拠に基づく正しい発信をしてまいります。

それでは、とりわけ日本に根付いてるとされる八百万の神信仰(自然崇拝)と、関連した多くの日本人の問題点を考えていきます。

 

 

自然崇拝は虚しい偶像崇拝の一つでしかなく幸いも何も無い 

 

端的に申し上げると、あらゆる自然物にも人間が作った物体にも神は宿らないし、魂が宿ることもあり得ません。物体は物体、自然は自然です。人間を含め万物は神による被造物であり、聖書で偶像を崇めることが禁じられてるのは、聖書の詳しい内容までは知らんでも聞いたことある人が少なくないと思います。「聖書に偶像崇拝の禁止が書かれ、キリスト教徒がそれに従ってるだけでしょ」等と他人事に思うかもしれませんが、聖書の記述をきちんと論証して理解すれば、神の律法は非常に合理的だと分かります。全てを列挙はできませんが、被造物を崇めるのが如何におかしいかを知れる聖句を幾つか参照してみましょう。

 

諸国民の偶像は銀や金、人間の手の業。

それら(偶像)にある口は喋らず、それらにある目は見ない。

それらにある耳は聞かず、それらにある鼻は嗅がない。

それらの手は触れず、それらの足は歩かない。それらの喉では発声しない。

依拠するそれらを作る者全て、それらと同じようになる。

詩編 百十五編四節~八節(拙訳)

 

あんた方は自分たちに作った、あんた方のモレクのシクス(礼拝所)や星の神なるあんた方の偶像ケワンを運んでる。

アモス書 五章二十六節(拙訳)

(※「シクス」と訳した原語の単語は、この節だけに使われてる固有名詞故にそのように訳しました)

 

(ほか、エレミヤ書十章三節~五節と十四節等、参照聖句多数)

 

これら引用した各聖句から明らかなように、偶像は所詮、特定の物体を材料にして人間が作った特定の物質の塊でしかありません。その証拠に、どんなに高い技術を持つ職人が精巧に作ったとしても、我々が話しかけて応答してくれるわけないし、動けと指示して動くものではなく人間が動かさねばなりません。幾ら木像を美しく仕立てようとも、ただの薪になる木と何ら変わりないと、イザヤ書の四十四章十五節には書かれてます。木材だったら火に燃えて灰になるし、燃焼しない無機物であっても災害等によってボロボロに破壊され得るものです。普通に考えて当たり前のことですね。近年では科学技術が進んで人工知能が使われてますが、人工知能であれ人間が指示を与え、学習させ、蓄えられた膨大なデータを基に人間の指示通りに動いてるだけです。

人間の作ったものに限らず、自然界の現象等は我々人類にとって計り知れません。しかし、木々、山、海、河川といった自然そのものが勝手に動いてるわけでも、偶然に秩序が保たれてるわけでもなく、全て万物の創造主なる神によって絶妙な秩序が保たれています。悪人によって気象操作がなされることはあっても、自然界の平衡が失われるわけではありません。天の万象も然りです。太陽、月、星といった天の万象に対して拝んでもならず、何故ならこれらも全て神が創造して天の下で生きる我々に与えられたものだからです(申命記四章十九節参照)。

したがって、「万物に神様が宿る」という感覚的なものとは異なり、聖書に書かれたあらゆる被造物の性質は理に適うと判断できると思います。

 

万物に神々が宿るのが正解であれば、偶像崇拝を繰り返した古代イスラエルの歴史は、大層安泰だったに違いありません。それらが人々の願いを聞き入れ、良好な秩序を保ったはずだからです。しかし、実際は真逆でした。創造主なる神に反逆し、偽りの神々、悪魔となった堕天使、あらゆる物体や万象を礼拝した結果、人々の倫理観は著しく悪化し、神の激怒を買って様々な災いを呼び、結局出エジプト後に古代イスラエルの民に与えられた土地を失って離散するまでになりました。旧約聖書では、創造主なる神を忘れて偶像の虜になった人々の邪悪な行いや態度も数多く記されています。律法の書、「○○記」という名が付いてる各歴史書、そして各預言書を通読してみると良いでしょう。

そんな虚しい偶像に依拠した人々が、どんな狂った行動に出たか、聖書本文からとりわけ印象深い例を挙げます。

  • 息子、娘をアンモン人の忌まわしきモレクへの生贄とした
    • アンモン人は現在のヨルダン王国辺りに住んでた異邦人です。彼らは、古代イスラエルの父祖アブラハムの甥ロトの娘が父親のロトにバレずに寝て孕んだ子供を祖先としており、申命記二十三章にあるようにイスラエルの民に悪事を行いました。アンモン人の崇めるモレクの為に自分の子供を生贄としてはならんとの戒めは、レビ記十八章および二十章で律法として書かれてます。アンモン人はイスラエルの民の比較的近い地域に居住しており、古代イスラエルの民が間違っても彼らの悪い慣習に従わないようにする為です。しかし、結局は神に逆らってイスラエルの民たちはモレクへの虜になってしまいました。それにしても、考えてみると子供を偶像の生贄にするってかなり恐ろしい話ですよね。インターネットで調べると、世の支配層側の人間、すなわち悪魔崇拝者側の人間どもが悪魔崇拝儀式で子供を生贄にしてどうの…という悍ましい話が見られます。例えば、参考までにこちら(ポジティブに生きよう!)。現代の悪魔崇拝者は、創造主なる神に反逆した堕天使(悪魔や悪霊)を崇拝し、神が嫌悪とされた異教の慣習に由来する悪行を行っていることが十分に考えられます。これだけでも、聖書に書かれた神の律法、あらゆる秩序が悪とは無縁だと分かるでしょう。
  • バアル信者の狂乱劇
    • この記録は、列王記上の十八章に書かれてます。太陽神バアル(反逆者ニムロド由来で、太陽神は世界中に存在するし、悪の頂点たるローマカトリックも太陽神崇拝)の預言者らがバアルに祈ったが何も起こらず、彼らはその後平気で身体を剣や槍で傷つけたり、忘我して預言したりしても何も起こりませんでした。場面を想像してみただけでもぞっとします。このように聖書とは無縁の異教の慣習はどう考えても狂っており、かつ虚しい限りだと学べると考えています。

先程まで示したように、「神」という存在を正しく理解せず、虚しい偶像や万象を拝んだところで幸いは何も無いのです。それは、古代イスラエルの神への反逆と破滅への流れが証明しており、真正イスラエルである日本の歴史や現状を考えても同様です。日本こそがイスラエルである(日ユ同祖論ではない)決定的な証拠がまとめられた動画はこちら(bitchute【真の聖書福音と預言】)。日本の神道とユダヤ教の共通点、イザヤ書の預言、神輿と契約の箱、日本の天皇と古代イスラエルの王、ユダヤ関係者らによる証言等の数多くの項目から分かりやすく説明されており、初めて視聴した人も理解できると思います。

古来イスラエルの人々は、日本を建国した後も創造主なる神を忘れて異教の虜になりました。インド発祥の異教である仏教とも融合しつつ日本人に浸透した「八百万の神」の概念を重視し信じる人々には、他の宗教信者を笑えない位に大いに問題があります。その問題点を大まかな項目に分けて説明します。関連する内容を呟く投稿を引用して画像化し、具体的におかしい点を突っ込んだりしてますが、あくまで発言に対する突っ込みであって、決して投稿者個人に対する攻撃でないことは最初にお断りいたします。

 

 

「八百万の神」が存在すると言っても、多くの人が考えるその「実体」とは、実に人間の勝手な妄想に過ぎない 

 

「この山には神様がいらっしゃる」「この神社には、○○という神様が~」等の話を耳にしたことがあると思います。有名なジブリ映画の「千と千尋の神隠し」でも数多くの所謂「神様」が描かれ、生涯の内で神の存在について考えたことのある人が大半でしょう。一方、日本の神とされるものがどんな名で、どんな特徴があって…と認識してる人はほとんど居らんと思います。

引用の都合上見本が少ないですが、以下の画像一にある数人の投稿だけでも、神への認識がそれぞれ異なっています。

画像 一

画像引用元:https://twitter.com/kasutera_tan/status/1688425686380548096?s=20

https://twitter.com/8kr8gm3uP8YzzH3/status/1689417999957295113?s=20

 

 

日本の神は日本や日本人を加護していると考えたり、神社で一方的に願掛けする多くの参拝者が多い中でそれに異議を唱えたり(コロナ禍と呼ぶのは間違い)、感謝する対象は神ではなく「物」だったりしてます。人それぞれ捉え方が異なる神って何だよって思うはずですが、無限に神が存在すると考えるなら違和感を覚える余地も無いんでしょうか…。

ただ、共通してる捉え方は、神という存在に対する畏敬ではありません。「神様は人間を温かく見守り、加護してくれる」といった一方的な願望というか、単なる人間に好都合な道具かのようです。こうした神への捉え方は、「自分は正しい人間だ」と自惚れる者らの身勝手な想像の産物と言えます。

「日本が神々によって(無条件に)加護されている」等と本気でお思いですか。日本の歴史を詳しくは知らなくても、日本は建国されて以来ずっと決して安泰ではなく、度々災害や飢饉や疫病に見舞われ、多くの時代で戦いも絶えませんでした。日本がイスラエルであるというのは記事内の少し前に触れたとおりの事実で、主なる神が約束されたように古代イスラエルのダビデ王の玉座が現在も天皇として形だけ続いてはいます。日本で聖書の律法どおりの生活が続いたわけではなく、結局人々は創造主なる神を忘れ、それこそ特に「八百万の神」という自然崇拝(これと「アニミズム」と言われる思想は日本独自ではない)や仏教信仰に陥りました。日本が安泰でなかったのは、異教信仰に陥り主なる神に従って律法や掟どおりに生活しなかった故でしょう。それでも、現代に比べ、昔は神の律法に基づいた倫理観や慣習はある程度残り、日本という国が滅びはしませんでした。しかし、特に明治維新以後、日本の中枢が裏で欧米の偽ユダヤ人に支配され、薩長土肥出身の多い売国奴に乗っ取られました。更に、従来の日本文化を捨てて価値観や文化等の面で西洋かぶれが進んだせいで、神の律法に由来する価値観や文化や倫理観がどんどん失われました(例えば青い房付き和服は律法の書の規定に適います)。自然界や物に宿った「神様」が日本を守っているのなら何故日本が非常に危ない現状になってしまったのかと目を覚まし、根本的に思想や行動を改めるべきです。

次の項目では、「八百万の神」の概念を信じて聖書を拒絶する人々の更なる問題点を考えながら、関連する現代の日本の現実にも触れます。

 

 

絶対的な権威を認知してないため、確固とした信念が無い 

 

これは様々な多神教や日本で一般的な仏教の諸宗派を信じる人々にも言えると思います。八百万の神の存在を信じたからって、それら神々が絶対的な権威となるわけではありません。聖書を真剣に学んで真心から実践する真のキリスト者なら、当然ながら神(イエス・キリスト)を固く信じ、神の計り知れない慈愛を知り、神のあらゆる律法や掟を遵守して慈愛と御恩に報いる働きを当たり前にするようになります。聖書に書かれた数多くの御言葉から、我々人間が神の知恵に基づいて歩むべき道や真の善悪を理解し、反聖書の悪人(悪魔崇拝者の支配層や加担する多数派)の圧力にも屈さず、聖書に書かれた神の御言葉が揺るぎない軸となり、行動も信心も一切ぶれません。しかし、キリスト者のように絶対的な権威を信じなかったらどうでしょう。特に現代では「人間中心主義(ヒューマニズム)」という近代の欧州から広まった思想が浸透してます。聖書にある神の義や王国を蔑ろにして人間のことだけを考えるもので、人間の身勝手な視点でしか考えない思考に繋がります。永遠に変わることのない神(ヘブライ人への手紙十三章八節参照)ではなくコロコロ気が変わる人間を当てにし、これは世の中で権威付けられたものを盲信することにも繋がるのです。主イエス・キリストによる終末預言および警告では、誰にも惑わされるなと警告する御言葉があるのに…。

 

世の権威への盲信は、過去何回か紹介してきたように、日本人の問題点 一〔真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)〕をはじめとする連載にあるとおり、コロナ犯罪はじめ支配層による大罪の助長、公務員による搾取、日本国民の給与の低さ、異常な仕事環境、西洋かぶれ等に繋がり、劣悪な社会の形成に繋がっています。しかも、多くの日本人にとって(偶像の)「神様」とは「人間を見守る」「願いを叶えてくれる」といった認識で、願掛けばかりして自身の行動は大して改善せず怠惰極まりないです。上の画像一にあるように、コロナ犯罪が早く終わるようにと願を掛けるのは愚か極まりなく、そもそも多数派が騙されずにコロナの嘘をすぐに見破って不服従なら絶対にすぐ終わってたはずです。相変わらずずっと存在証明の無いコロナウイルスとやらを存在すると信じ込む(世の権威による嘘を信じてる)のが致命的に悪い。「昨年までは行動制限がなされてたけど今年はやっと~」というのも変で、最低限は憲法や法律を理解して不当な「行動制限」を違憲および違法と見抜いて不服従および猛抗議すれば、そもそも起こり得なかったはず。無知で愚かで「早くコロナ終わらんかな」と無責任過ぎる姿勢は、自身で努力もせんこに神社で願掛けするだけの無責任な人間と同じ構図です。

拝金主義や物質主義等の日本に古来無かったはずの悪い思想も蔓延って、余計に精神的にもどんどん堕落してると、歴史や周囲の様相を見ても感じられます。神への認識を完全に間違って偶像礼拝を改めず、聖書から真の善悪の揺るぎない基準を知らない故に、他国(特に西洋)からの悪い思想も悪いと思わず簡単に取り込んでしまう。神の基準が備わってないなら、全て人間の当てにならん主観が判断材料になります。世の中全体が悪の中にあり(ヨハネの手紙一の五章十九節参照)、邪悪な支配層が大衆を管理しやすくするため、大衆を愚かで悪に従順にしようとあらゆる工作を行ってるのだから、何よりも創造主なる神とその秩序を愛する姿勢でなければ、確固たる信念も無いまま悪人どもが作った流れに何気なく乗ってしまうのが必然です。これじゃあ、分別の皆無な動物に等しいですね…。

 

このように、仏教は勿論、「八百万の神」の考え方は、申し上げてきたように様々な悪い結果をもたらすのであり、とても擁護できるものではありません。聖書に偶像崇拝が罪だと書かれてるから、という理由だけではありません。人々の心理や行動を掘り下げてみると、何故偶像礼拝が罪なのかが分かるのではないでしょうか。それにも拘らず、多神教とは異質だとしても一神教についてよく文句言えるなと思います。次の画像二を見てみましょう。

画像 二

画像引用元:https://twitter.com/sate_tv/status/1689502775410139136?s=20

https://twitter.com/yamatoyamaguch/status/1687378374178779136?s=20

 

 

人間の慣習が大いに入ったユダヤ教、カトリックとその派生のプロテスタントや正教会といったパウロ教、カトリックの創作であるイスラム教を擁護するつもりはありません。キリスト教という名のパウロ教は、偽使徒パウロの偽教義と西洋土着の異教(太陽神崇拝)が融合したものであって聖書やキリストに全く忠実ではないし、他の宗教も聖書を悪用したカルトです。悪魔崇拝者らが数多くのカルト宗教を作り、聖書の真理から多数の人々を遠ざけることに成功してきました。そして、その信者らが過去に蛮行とか繰り返したのも事実で、世にある一神教を擁護するつもりは全くありません。しかし、聖書に固く依拠する姿勢に対しても中傷するなら、容認できません。争いや差別についてはヤコブの手紙にあるように、人間それぞれの争う欲望や無慈悲によるのです。根底に、支配欲、名誉欲、金銭欲等があるでしょう。但し、神の律法に違反するもの(性的倒錯とか)に関して反対することは差別でもなんでもなく、擁護する方が間違いです。話を戻して、宗教戦争も彼らの欲望や権力闘争による面が大きかったと考えます。聖書は争いも醜い欲望も全く肯定してません。それどころか、敵を愛する精神が教えられています。聖書全体を何回も通して読んで主旨を把握しないから、聖書まで「悪い宗教の根源」みたいに勘違いするし、驚くほどに悪魔崇拝者の支配層の人間どもが聖書の神の律法や掟に反した行いを繰り返したり広く推奨したりしてると気付けないままです。

一神教と比較して、八百万の神の概念をえらい肯定する人も多いです。上の画像一で引用したうち一名も、一神教の人は物に感謝しないのかと疑問を呈してます。聖書に依拠するなら、物自体には感謝しません。だからと言って、物をぞんざいに扱うのではなく、作った人に感謝して大事に扱います。自然や食物に対して、それ自体を畏れるのではなく、万物の創造主なる神に感謝して大事にします。普通に考えて、物に感謝するっておかしいとは思いませんか。料理なら料理を作った人に感謝するし、仕事を依頼してその成果ができたらその完成品ではなく頼んだ相手に感謝します。

万物に神や魂が宿るみたいな考え方だからこそ得られる優れた精神なんてありません。むしろ、あらゆる面で基準が人間中心的だと言えるし、世間の様子から考えてみても他人任せで無責任な態度に繋がるとしか思えません。一方で、神の律法の最も重要な根幹が神への愛と隣人愛であり(マタイによる福音書二十二章三十六から四十節参照)、人にしてもらいたいことを人にすること(マタイによる福音書七章十二節参照)です。特に、見返りを求めない無償の愛(慈愛)です。これ程高潔な精神を教える書は、聖書の他に存在しません。あるとしたら、聖書をパクったものでしょう。日本の教育の仕組みが悪い、政治家が悪い等と考える人は少なくありません。それは間違ってないのだけど、多数の日本人の悪い性質による結果の積み重ねを無視する人が多いです。先程までに示したように、八百万の神の考え方に基づく思想も、問題点の一つの要因となってると認知していただきたいです。

日本がこの三十年以上も不景気で没落し続けてる理由は、古代イスラエル人の末裔たる純日本人がキリスト信仰を持たず、神の律法を守らへん故に神がお怒りになってるからやと早よ気付き、悔い改めい。不信仰であることに加えて、バブル景気崩壊後、速やかに改善のための努力をせず、平成初期(千九百八十九年)から三十年以上も大人たちが政治や法に無関心で何もせず、売国奴どもを放置し続け、世俗の仕事や娯楽や快楽等にうつつを抜かし、愚かで居続ける日本人の不作為の結果や。

(引用元:日本人の問題点 五 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

感覚的で当てにならん自然崇拝や偶像崇拝なんか即座にやめ、聖書を真剣に学んで理解すれば、この引用した文章の意味がよく分かると思います。聖書に書かれた神の律法、掟、戒め、イエス・キリストの公生涯での生き様から、我々人間がどんな価値観を持って何を実践していくべきか併せて気づけるようになるに違いありません。

 

しかし、以下のように、聖書に対する無知な誤解も根強いです。

画像 三

画像引用元:https://twitter.com/JoeHyde14124582/status/1686447884785549312?s=20

 

「聖書は人を奴隷にするために書かれたアジェンダだ」と、これまた全く根拠も無い持論を得意げに発信してるのかなと思うと、あまりに滑稽です。聖書への依拠よって悪魔や悪魔崇拝者どもの奴隷になんかなるわけありません。むしろ、神(主イエス・キリスト)に反逆して罪を犯す(律法に違反する)ことで、悪魔と同様に罪の奴隷になります(ヨハネによる福音書八章三十四節参照)。神に従順だった、アブラハム、モーセ、ヨブ、ダビデ王、神によって召命された預言者、十二使徒、それぞれ彼らがいつ悪魔や悪人どもの奴隷になったのか、そんな事実は全く無いです。神の御意志を必要最低限理解するには、聖書から学ぶしかなく、「律法から耳を背けて聞かない者はその祈りも嫌悪すべきもの」(箴言二十八章九節参照)と言われてるくらいだから、聖書に書かれてるとおりに従わない人間が神と繋がるのは有り得ません。神御自身に従わない人間への扱いに文句を言うのでしょうか。前提として、神は人間ではなく創造主で、人類は被造物であって立場が全く違います。想像してみてください。自分が主人あるいは組織の上の立場だと仮定して、明らかにこちらの指示は間違ってないにも拘らず使用人や部下が頑なにくだらん反抗ばかりしたら、どう思いますか。腹立たしく、拒絶したいと思うはずです。神へ不平を思う人らは皆、神の立場になって想像してもみず、ただ感情的に罵るだけです。反抗の激しい子供のような感じ。もっとも、この人の言う「神に繋がる」というのは、霊媒や降霊術といった悪霊との繋がり(律法違反の行為)にも思えます。というのも、自己紹介欄で言ってることが、もろにニューエイジ思想だからです。神を正しく知らんから、所謂スピリチュアル系に嵌り、神と繋がってると思い込んで実は悪霊と繋がってる外ならず盲目なのです。だから、「我々は何も真実を知らないかもしれない」みたいなことを考えるのでしょう。ついでに申し上げますと、返信投稿をした「現代の社会世相」(@onyxorion2)という人の言い分もおかしいです。聖書がユダヤ教の悪の部分を改善したって意味不明であり、ユダヤ教とは南ユダ王国のユダヤ人らが神の律法どおりではない人間の教えや慣習を混ぜたのが基です。現代の白人の偽ユダヤ人らによる「ユダヤ教」は一世紀頃よりももっと聖書から逸れているでしょうね。カトリックやプロテスタントや正教会をはじめとした「キリスト教」は、ユダヤ教に乗っ取られるとか以前に、先に申し上げたとおり成立からしてずっとキリスト信仰とは全く異なる異教(パウロ教)で最初から腐ってます。一世紀の、使徒ペトロ達が関わった初代教会の姿とは全然違います。聖書全体からして、黙示録の獣はローマ教皇以外に考えられず、イエズス会はカトリック由来でカトリックの最高位たるローマ教皇がイエズス会に無関係だというのも普通に考えておかしいです。

参照元:聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp) ほか

 

わしも聖書に出会う以前は、「色んなものに、神や魂が宿ってるのかな。きっと自分も温かく見守られてることだろう…」と考えてました。しかし、そんな淡い期待(というより妄想)だけであり、八百万の神の概念を信じることで自分にとって良い影響は特にありませんでした。人間にとっての正しい善悪や正しい死生観、本物の愛とは何かを学べたのも聖書のお陰です。悪魔が支配するこの世において、一喜一憂せずに悪に抵抗しようと決意できたのも、聖書から学んだお陰です。ダビデ王の時代の安穏、ソロモン王が正しかった頃の繁栄からしても、聖書の教えを守ることこそ人間の本分であり、幸いなんだと分かります(コへレトの言葉の結末にもあるとおり)。極悪人だらけの腐り切ったこの世で正義は実現しないけども、この世が滅ぼされて新しく創造されてイエス・キリストが永遠に統治する後の世にて、真の平和や正義に満ちた世界が実現されるのです。八百万の神の概念を大事にしたところで、この素晴らしい神の王国に入れることはまず無いですが、今すぐに聖書を真剣に学んで実践すれば御国に相応しい者となれる可能性はあります。

これまでも何度か、聖書を拒絶する人らの聖書に対する嘘の中傷に対し弾劾してきました。彼らの態度はコロナ脳といった末期の世の権威信仰者と大差ありません。コロナの嘘に気付いてワクチンを避け、世の支配構造に気付いたりしててもです。聖書を自ら真剣に調べず、反キリストの人間による嘘を簡単に信じるのだから。当然、無理に信じても神への愛が無いままで忍耐力が無く、最期まで信仰を固持できないので、聖書を無理に信じる必要はありません。しかし、最期まで悪に抵抗したい、真に正しく生きたいのなら、聖書をいち早く手に取ることをわしは心から強く勧めずにはいられません。