こんにちは。

真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」にて提供されている「神のイスラエル教会」(以下「教会」と表記します)に入るまでの繋ぎの場としての「兄弟の集いの場」(以下「集いの場」と表記します)について、わしが聖書に出会ってからそこに入るに至る経験や入ってからの思い等を記したいと思います。過去記事「「神のイスラエル教会」での学び」では特に教会での学びと自分が得たことや変化を中心に書きました。集いの場の段階でも、自分自身の中で意識の変化があったと振り返り、少しでも自分自身の経験や思いが誰かの役に立てたら幸甚だと思いました。特に、聖書に出会って信じようと思うけどその先が踏み出せない人、独りで信仰を保つことは可能なんじゃないかと思っている人、世の諸教会から抜けて真剣にキリスト者との交流を持ちたい人に向けて、確固とした正しい生き方を確立するための後押しをします。参考にしてください。

 

先日行われた、第二十六回参議院議員選挙では、こちら(NHK)にあるように自民党が単独で改選議席の過半数を獲得し、憲法改悪に特に目立って躍起になっている現与党と野党のうち日本維新の会、国民民主党の獲得議席の総数は九十三議席で、憲法改悪の発議に必要となる参議院全体の議席の三分の二を上回りました。今回も恐らく不正によって自民党をはじめとした改憲勢力が有利になるように工作されたに違いありません。国民が持つ権利として一応選挙で投票はしつつも、選挙自体は全く役に立たずで改憲を大々的に主張する現与党を引きずり下ろそうという期待さえも一切持てません(本気で改憲阻止に向けて動く政党も日本の国益を第一に考える政党も無いため個人的に支持政党は無いが、特に現与党が一番危険だという認識です)。もし憲法を改悪しようという動きが更に進んで改憲の発議がなされれば、コ□ナ犯罪が横行する世界で大衆が支配層の思うままに翻弄されてきたのと同様に国民の大多数が愚かにも改憲賛成に誘導される可能性があり、そうではないとしても国民投票にかけられた時にまた不正がなされれば…その後の状況は容易に想像できますね。憲法は国の最高法規であって日常生活にも大きく関わる重要なものであり興味なしで放置していいものではないため、憲法改悪について周知する人は少なからずおられますし十分に調べることを強く推奨します。そして、こちら(全力で改憲反対してワクチンも拒否せい(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)))で解説がなされてるように、憲法改悪阻止のために多くの人が具体的な行動をとるべきとあります。

 

(画像に使用した元記事:全力で改憲反対してワクチンも拒否せい(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))

 

衆議院の解散等が無い限り今後数年は選挙が無くて余計に憲法改悪への動きもやりやすいであろうと思われ、そのような危険な状況がすぐそこまで迫っているといえます。改憲がなされて現憲法の三大原理(国民主権、平和主義、基本的人権)が無くなれば、この国でも戦争ができるようになって約八十年前みたいに人々が戦争を肯定するように煽られ悲劇が繰り返される可能性があります。政府などの命令に従わなければ逮捕や投獄、彼らに不都合な言論や思想が酷く弾圧されることも考えられます。緊急事態条項が付いてきたら間違いなく恣意的に悪用されるでしょう。そのような苦しい状況、そして黙示録をはじめとした預言通りになった時、悪に絶対に屈しない強さを持つためにも今後自身を聖化していかなければなりません。聖書に書かれた神の教えを信じる人であれば、聖書全体から十分に学んで日々神の御命令を実践する必要があります。それぞれ個人が信仰をもとに主イエス・キリストを模範として歩むべきなのは当然ですが、それだけでなく内面の成長には信仰の兄弟が集まる特定の場における交流が必須です。確かに主イエス・キリストによる新しい掟として兄弟愛が命じられている(ヨハネ十三章三十四節及び十五章十二節参照)のもありますが、ただ掟としてあるから守らなきゃという受動的な動機ではなくて本当に信仰の兄弟と交流して学び合い、高め合い、励まし合うこと等が必要だと気づいていただきたく存じます。

 

教会を目指し今後への覚悟のもと集いの場に入会申請をする経緯

わしは、三年と何か月か程前に聖書に興味を持ちはじめ、ネット上を何気なく見ているうちにある日「真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)」に出会いました。ブログ記事では、主観的で説得力に欠ける意見ではなく正当に根拠を示しながら論証しておられ(聖書関連で言えば根拠となる聖句の明示)、世の中の実態についても証拠となる動画や他記事を提示しつつ説明しておられます。途中で少し違う話題が入ることもありますが、それらも全て本題に関連することであり主題となる内容の理解の助けにもなります。夢中になって読んで、わしが知りたかったのはこういう情報だったんだと気づき、かつ聖書に関しても西洋で広く普及したキリスト教の聖典にすぎないという認識は崩れ去ってむしろ「聖書にはこがにも全ての人間にとってためになることが書かれちょーのか~」と知ることができました。元々巷の教会とか牧師とかにあまり関心が無かったのも「牧師でもない人なのに信用できーかな」といった愚かな偏見を抱く要因にならなかった故に今となっては良かったですし、自ら聖書を通して読んで確かに矛盾も無いわとすんなり確信ができました。

それから、管理人ミカエルさんが運営する教会とその繋ぎの場である集いの場を知り、最初は漠然と「集まりの場があるんだな」みたいに認識していただけだったと思いますが、聖書について学びをするうちにぜひとも真剣に信仰生活を送る兄弟と出会って交流したいと望むようになりました。世の諸教派は当てにならないし…かといって自分だけで信仰を持とうとすることに心許なさ、不安があったと思います。確かにネット上で顔も知らない見知らぬ人ではあるけど管理人のミカエルさんの主イエス・キリストや聖書に対して偽りなく誠実でまっすぐな姿勢は本物であると感じ取り、そして既に先に参加している人たちも聖書やブログから真剣に学んでいるはずで信用できるのではないかと思ったからです。ドキドキしながらも勇気を出して一歩踏み出しました。

 

自分の中での変化

わしは最初かなり緊張しましたが、最初から皆さんにはまるで昔からの親しい友人をおかえりなさいと迎えるかのように温かく歓迎していただきました。日々の信仰生活における悩み等について相談するのも正直かなり緊張はしましたが、いつも丁寧に親身に回答を頂けましたし、わしがうっかり適切でない言動をしてしまった時は率直に戒めてもらいました。わしは、教会や集いの場が開設されてから月日が少し経過してからの新規参加だったゆえ、交流だけでなく他の兄弟たちによる過去の投稿を閲覧するのも少なからず自分に当てはまることがあったりして学びや励ましになった覚えがあります。

自分が信仰の兄弟と交流するようになって変わっていったことは、とりわけ、自分のことだけでなく他者に気をかけるようになれたことと、世間一般の多くの人々とは異なる価値観や信念を持つとしても恐れない覚悟を抱いてきたことです。

前者について、人間は誰もが自分のことばかり考えていれば自己中心的で独りよがりな思考に陥って聖書で教えられる慈愛の精神とは甚だ遠くなるだけです。そして、自己中心的になると、視野も狭くなり心に余裕が無くなったりもしてくると感じます。福音書でも「タラントンのたとえ」(マタイ二十五章)や「ムナのたとえ」(ルカ十九章)にあるように人間は各自に与えられた能力や環境を活かして父なる神の御計画のために役に立つことが求められており、当然ながら怠惰であっては駄目ですが我々人間が自分のことをいきなり客観視するのはとても困難ゆえに悪い点は悪いと率直に伝え合ったり互いの改善点や伸ばすべき点に気づいたりすることも時には必要です。自分の心になるべく余裕を持たせるように努め、幅広い視点から自分や他人を見つめるには他者に気をかけることは重要であると感じられました。ネット上を見ても、キリスト者を自称する人々が薄っぺらい交わりの中で、ただ偽善者どうし傷のなめ合いをするだけで、間違いを率直に戒めたり厳しいことは言ったりせず独特な生温い空気の環境で満足する人がとても多いと実感しました。恐らく、巷の教会でも似たような感じの所が多いのでしょう。先月書いた記事「ある教会へ足を運んで」で話題にしたところも、結局は教会員それぞれが積極的かつ自主的に学び等をするというよりは牧師や教師の言うことを聞いちょきゃええかと考えている人が少なくない印象を受け、おおよそ想像通りという感じです。わしが所属する教会はもちろんのこと集いの場であれ他のキリスト者の集まりと何が違うかと言えば、やはり聖書に忠実であり各々に主体性や積極性が強く求められることだと思います。世の中でも自己中心的で主体性や積極性の無いような者は厭われますが、だからといって率直に戒めてくれる人はほとんどおらずそういった悪い性質を矯正できる場は滅多に無いですよね。わしも元々主体性のある人間ではなく自分中心の考えをすることも多かったけど、以前と比べればかなり改善できたとは思います。努力して改善に励むのに非常に良い環境に恵まれました。

後者について、聖書は胡散臭い宗教の本ではなく創造主なる父なる神が人間のためになる教えや知るべき神の御計画や預言等がわかりやすく示されている最も価値のある書物です。わしは聖書の価値を知る前何か偏見を持っていたわけではありませんが、やはり世間的には特定の存在を信仰し生活することに対する印象はあまり良くはないと感じます。確かにかつてオウム真理教の事件もあったりいくつかのカルトの悪い噂があったりしてそれらに嫌悪感を抱くのは無理もないものの、日本では神社で参拝したり天国と地獄の概念を認識したり葬式は仏教式で行ったりその他宗教的意味を持つ慣習や行事に従い参加する多神教信者が多いのは明らかで、政界でもカルト宗教や特定の偏った信条に密接に関わっていて(日本国憲法にある政教分離の違反)彼らを支持する世俗社会も同類であり、にもかかわらず宗教に嫌悪感を持つ人が少なくないのは意味不明です。とはいえ、聖書にある神の律法も大多数の人の価値観とは合わないものもあって大多数に漫然と同調していれば到底守り切れないゆえに、人々から信仰について理解されないことも多いと感じます。世の中の実態に気づいた人であっても根本的に価値観は世の中の大多数と何ら変わりないと思いますし、熱心なキリスト信仰について周囲に理解してもらおうとする方が大変でしょう。そんな中でも、信仰の兄弟と交流することで、信仰生活における似たような悩みを共有でき、ミカエルさんをはじめそれらの対処法を知っている方々による助けがあって乗り越えることができました。同時に、仲間も同じように頑張っちょるんだけん自分も挫けんこしっかりせんとな、頑張らねばという前向きな思いが芽生えました。助けを頂きつつ当然こちらもできることは行うようにしていき、世間一般の多くの人々とは異なる価値観や信念を持つとしても恐れない強さを育んでいけたと思います。当然、未だ成長の余地はあり、今後もしっかり励んでいく次第です。あの時、教会への参加を目指してまず集いの場に入ろうともせず独りぼっちで信仰を持とうとしていたら…決して前向きな思いは芽生えなかったでしょう。現在も、コ□ナワク チンを打ちたくないと思いながらも同調圧力で打つ選択をした人が珍しくないことからも人間は本当に弱い存在で臆病さを強く持っているものです。同調圧力にも屈さず断固拒否という選択をした人は、そうできたのも周囲やネット上問わず同じ信念を持った人がおり少なからず励まされたからではないですか。これに限らず信仰においても一人で保とうなんて思考は大変危ういと再認識しました。

 

また、主イエス・キリストが地上で我々人間に命じられた新しい掟として(特に真心からの信仰を持ったキリスト者どうし)互いに愛し合うことを命じられ、その教えを直接受けたヨハネによる書簡にも信仰者どうしの慈愛の重要性が説かれています。仮に誰とも交流しないままだったら、この兄弟愛の重要性や重みに気づくことはまず無く、自分には無い有益な視点も得ながら学び合い励まし合い等を積み重ねてきたからこそ信仰の兄弟のありがたみを心から感じるに至ったと振り返っております。

 

幸いだ、邪悪な者らの意図に従って歩まず、不信心な者どもの道にとどまらず、嘲る者どもの席に座らず、主の律法を自身の喜びとしその律法を昼間も夜も思い巡らす人は。その者は水の細流の傍に植えられた木のようである。その時期に従って実を付け、その葉はしおれない。(その者が)行うすべては益をもたらす。だが、邪悪な者どもはそうではなく、風が追い散らすもみ殻のよう。それゆえに、邪悪な者どもは裁きに、不信心な者どもは高潔な者らの集まりに耐えない。

詩編 一章一節~五節(拙訳)

 

ただの虚しい馴れ合いではなく、生涯信仰を守り通すと強く決心したキリスト者が集まって励ましたり高め合ったりする重要性をご理解いただけたでしょうか。ぜひ、信仰を固く持ち、律法、掟、戒めを喜んで守り、共に励まし高め合える仲間をお待ちしております。上記の詩編の言葉にあるように、共に世に迎合することなく神から認められ真に幸いな者となれるように。

「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲(真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))をご覧になればわかるように、集いの場に入るための条件は以前わしが参加し始めた当時よりも厳しくなりました。背景は告知の記事に書かれている通りでして、悪意を持って入ろうとするのは論外としてもやっぱり思ってたのと違ったとかキリスト信仰を甘く見ていた等という理由から途中で退会することがないように、なおさら聖書から学んで実践し正しい信仰を生涯守り通すんだという熱い気持ちや今後に対する覚悟を十分に持つことが求められます。上記の詩編の言葉通り、神に従う人とそうでない人は決して相容れることはないのもその通りだと感じます。当記事にて、ちょっとでも皆様の後押しができることを願います。

 

過去記事「「神のイスラエル教会」での学び」の最後の部分にも書きましたが、教会への入会を考えるにあたり何か疑問や不安な点がありましたら、答えられる範囲でお答えしますので遠慮なくどうぞ。もし他人には言いにくいことがあればアメーバのメッセージ機能からでも構いません。