こんにちは。

 

人間に守るように神から制定された掟や数々の教え、預言者等を通じた預言といった内容が、聖書にたくさん書かれてるのは言うまでもありません。ただ一方で、それだけでなく聖書の原文がそれぞれ書かれた当時の人々の記録も見られ、中には我々にも教訓となりうるものもあると言えます。歴史や周囲の人の言動から学びを得る機会があると思いますが、ちょうど同じような感じです。そこで今回は、聖書に書かれてる、善い行いをしようと思ったはずなのに自分自身の醜い思いに負けて却ってそれを台無しに(むしろ悪い行いに)してしまった人たちの記録から考えてみようと思います。現代とは世の中の状況や生活様式がかなり異なるのはその通りですが、きちんと読めば人間の本質とは時代関係なく共通していること、自分にももしかしたら似たような要素や一面があるんじゃないかといった気づきがあるに違いありません。

特に、聖書に関心のある人にとって、自分自身の行いを点検し反省し考えるきっかけになるのではないでしょうか。

 

今回取り上げる箇所は、使徒言行録の五章一節から十一節にかけての部分です。

この事件の記録の前にて述べられてるのは、使徒ペトロたちによる主イエス・キリストを信じない者たちへの証しや伝道、十二使徒を筆頭とした当時のキリスト者たちの信仰生活の様子等です。前節までの流れから捉えられる通り、この事件はキリスト者たちが自分の持ち物や財産を信仰の仲間たちと共有し助け合う場面の一つとして起こったものです。

 

出来事の概要

ところが、アナニアという男が、彼の妻サフィラと一緒に土地を売却し、妻も気づいておりその代金を着服し、その一部を持っていき使徒たちの足もとに置いた。

使徒言行録 五章一節~二節(拙訳)

 

ある日アナニア、サフィラ夫妻は二人で事前に相談して自らの土地を売ることを決め、その売った際に得た金額を共有しようと考えました。本文に詳しい言及が無いけん推測ですが、キリスト者たちの間で、土地を売る人はその金額をありのままに伝えるようにあらかじめ取り決めが恐らくなされちょったんかもしれません。しかし、二人はその代金をごまかして本来得た金額よりも少ない金額を使徒たちに持って行ったと読み取れます。誤って一部の代金を紛失してしまったとか誰かに盗まれてしまったとかなら別ですが、これは完全に計画的なもので故意犯であり質が悪いのは誰の目にも明らかです。

そして、アナニアという男が代金を持って行ったところ、彼は使徒ペトロから次のように言われました。

 

それで、ペトロは言った。「アナニアよ、何ゆえサタンは聖霊を欺いて土地の代金から着服することであんたの心をいっぱいにしたのか。(あんたのもとに)とどまるものは依然あんたのもとにあるままだったではないか。売られたものは自分の権限の元に存在していたのではないか。なぜ、あんたの心にてこのようなことを抱いたのか。あんたは人間ではなく神を欺いた。」

使徒言行録 五章三節~四節(拙訳)

 

ペトロはアナニアらの魂胆を全て見抜き、非常に厳しく非難しました。このペトロの言葉の後、アナニアは息絶えてしまい、それからしばらくして妻サフィラも開き直ってなのかわかりませんが嘘をついてごまかし、彼女も夫と同じようになりました。この一連の出来事は当時の教会の人々を恐れさせ、アナニアとサフィラの行いとそれによる報いは彼らへの見せしめとなりました。

 

アナニアとサフィラに存在してた「隙」

ここで、アナニアとサフィラの動機や心理を考察してみます。

彼らが同じ信仰の仲間(信仰の兄弟)のためにと真心から自発的に土地を売った代金を共有しようと思っちょったのかは不明ですが、少なくとも強欲にならんと兄弟のために自分を犠牲にして尽くすことが善いことであるとは認識してたと思われます。この出来事の直前(使徒言行録 四章三十六節)に書かれてるバルナバ(ヨセフ)という者のように、代金を素直にそのまま使徒たちに渡しちょったなら、彼らはむしろ使徒たちや兄弟たちから喜んでもらえたに違いありません。それにもかかわらず代金をごまかして本来より少ない金額を持ってきて「これが土地を売った代金です」と嘘をついたというのだけん、第一に強い金銭欲があったのは間違いありません。また、強い金銭欲があっただけでなく、主なる神が人間の心の中まで全てお見通しになること(サムエル記上十六章七節 参照)を意識できてなかったのもあったのか、あるいは神が人間の全てをお見通しになることは知ってても「ちょっとくらいごまかしても問題ない」「代金を持って行かんわけじゃないんだし、大丈夫だろう」等と考えたのもあったと推測できます。いずれにせよ、キリスト者であり神(イエス・キリスト)を信仰する者だという自覚を持ちながらも神への畏れの気持ちが無いに等しかったんでしょう。「アナニア」(主は慈悲深く授けてくださる)という名に含まれる意味とは裏腹に…。

その結果、ペトロが言った言葉からわかるように、彼らは人間である信仰の兄弟たちに嘘をつき、兄弟たちというよりむしろ聖霊を侮り、欺き、冒瀆するというとんでもない罪を犯しました。その罪の重さが、命を奪われたことによって強調されていますし、神の霊たる聖霊を冒瀆することの罪深さはこの聖句にもあります。

 

しかし聖霊に対して罵る(冒瀆する)その者は、永遠に赦免がなく、その上永久の断罪(地獄行き)に処せられるのである。

マルコによる福音書 三章二十九節(拙訳)

 

文脈として、ここは主イエス・キリストが、人間が過去に犯した罪も自身が必死に悔い改めるように努めてもう同じことを繰り返さんようになれば神の御心なら赦されるであろうという意図を説明なさった箇所です。しかし、上記引用の通り、神の霊である聖霊を冒瀆することは赦されえないであろう罪だということと捉えられます。聖霊を冒瀆することが如何に恐ろしいかがわかりますね…。聖霊のお導きがあるにも拘らず、それに反抗し、自分の勝手な欲求を押し通して罪となる行為を繰り返してはいけません。聖霊のお導きによって行動する人間を、「悪霊に憑かれてる」「狂ってる」などと酷く中傷することも、聖霊への冒瀆に当てはまると思います。

 

この出来事から得られる教訓

第一に考えられることとして…自分ではたとえ「些細である」と思ったとしても、そがな油断さえも大事になりうることがわかります。「ありの穴から堤も崩れる」という言葉を聞いたことがあると思います。ほんの些細な油断や不注意が大事を招くことを意味するのですが、まさにこの件もこの言葉の通りだったと捉えられます。仮にもアナニアたちはキリストを信仰する者の中におったわけであり、善悪の正しい判別はできちょったはずです。上で申したような「ちょっとくらいなら…」という思いがあったんか、どげしても自分の生活のために財産を残したいという欲があったんか、断定までは難しいですがいろいろと推測はできます。とはいえ、いくら言い訳を並べるとしても、とりわけ悪いのはキリスト信仰者であるにも関わらず信仰生活よりもやがては滅びゆくこの世の物を愛し、それを惜しむあまり同じ信仰の仲間、そしてマタイによる福音書二十五章四十五節でのイエスの御言葉を根拠としてわかるように同様に神(イエス・キリスト)をも欺いたことだといえます。ペトロが「人間ではなく神を欺いた」と非難したのも、その御言葉によるかもしれません。ヘブライ人の手紙十章二十六節から二十九節の内容(真理の知識を受けてもなおすすんで罪を犯し続ける者は、主イエス・キリストの御業や聖霊を踏みにじるようなものであり、容赦されることはなくなる)を思い起こさせられますし、動機がどげであれ結果として二人が息絶えることになったことがその重大さを物語ってるのではないでしょうか。

また、ペトロがアナニアに言った言葉の中で「サタンは~あんたの心をいっぱいにした」とありました。確実に言えるのは、「サタン」とも表される悪魔は自身の滅びに人間を道連れにしようと人間が持つ欲、神の掟に反する思い等を狙ってつけ込んでくるのであり(人間には自覚が無い)、身勝手な罪(ヨハネの手紙一 三章四節よりすなわち律法に反すること)につながることを少しでも考えて隙を見せるのは危険であることです。一度信仰に入り神に従ってるつもりである人ですら一切の油断も許されないことを教えられてるように思いました。さらに、代金をごまかして持ってくるくらいなら売らないでおくか売ったとしてもいっそ代金は持って行かんまま自分のものとした方がましである旨の言葉から、中途半端な善行や自己本位な善行の無意味さ(むしろ忌まわしいくらいである)を教えられてると考えられます。

 

自分がこうではないか、あるいは兄弟であるはずの人がこのようになってはないか…内面を改善するためにも本当によく吟味することが重要ですね。

 

終わりに

聖書の中で記録されてる過去にあった出来事について、かつてわしは単純に「事実」と軽く受け止めるだけで深く考えずに読んじょった記憶があります。しかし、聖書を丁寧に読み進めるうちに、聖書にはただ創造主なる神の掟や主イエス・キリストとして地上で教えられたころに遺した教えや御言葉が書いてあるだけでなく、歴史的な背景や人物の記録(成し遂げた善行や、特に数々の失敗や過ち)についても多く書かれ掲載されてる理由について考えるようになりました。もちろん、かつての時代背景や慣習等を知って(現在の「正典」は本来載るべきだった書が意図的に消されたりされたようですが…〔詳しくはこちら→真の聖書福音と預言 (ameblo.jp) 〕)信仰生活において何かしらの参考にすることも可能だと思います。しかしそれだけでなく人物の記録、特にその過ちについても隠さず書かれてるのは、やはり全ての人間が犯してしまう可能性が否定できないですし似たような性質を持ってるんじゃないか等きちんと読む側の人間に考えさせて戒めとさせるためだという意図を感じました。以前に起こったことはこれからも起こりうるし、この世界において新しいものごとは何一つない(コへレトの言葉 一章九節参照)すなわち歴史は繰り返すという旨が言われちょー通り、人間の本質もまたはるか昔から変わらないし真理はいつの時代にも普遍的に通用するものであると、聖書を学ぶにつれて実感していったところです。

聖書に関心のある人は神が人間に理解するように求めておられることは確実に学んで自分のもののようにするように努め、良いことも悪いことも教訓として学びを深めることが必要だと考えます。それだけでなく聖書に触れたことが無い人であっても今回の拙記事によって少しでも認識が変わったり関心を持つようになるきっかけとしていただけるならこの上なく幸いです。