こんにちは。

 

以前、過去記事(聖書から学ぶ、敵をも愛する精神)では聖書で教えられる愛(αγαπη:「慈愛」)について取り上げて拙文を書かせていただきました。今回はその逆ともいえる「自己愛」について取り上げます。自己愛がどれほど善行に励むのに障壁となるのか、悪い性質であるか等を自分自身の経験も踏まえてお伝えできたらと考えています。

 

まずはわしが自己愛という自我に負けてどがな失敗をしたのか、憂き目にあったのかを記します。

悪いことを悪いと率直に非難できなかったこと

小学校の時は、同級生の間で複数ほど派手にではないですがいじめがあり、わしは直接その子らに嫌がらせをしたわけではなかったものの見て見ぬふりをしちょったと思います。実際には直接手を出さなくても傍観していてはそのいじめを容認してるのと同様であり実質加害者となります。愚かなことをしたものだ…と何年かして思いましたが、今になって分析してみればいじめの傍観の一番の原因は一言で言えば「臆病さ」です。いじめられている人を堂々と庇っていじめている人を非難すればいいことですが、いざそげんすれば自分も標的にされて厄介なことになるという思いに支配されてたと考えます。その臆病さというものは信仰に入ってからも残り、かつて今よりずっと信仰が薄かった頃は主イエス・キリストへの信仰を堂々と言い表せなかったことがありました。さらに、現在のようなコ ロ ナ茶 番の下で非常に危険なコロ ナワ クチンを打たないように、あるいはその他の規制をやめるようにちゃんと十分には説得せんかったりしたこともありました。なんか変わった人みたいに、もしくは良からぬように思われたらいやだなと感じたが故の恐れでしょうが、冷静に振り返ればとてもばかげたことです。信仰のことを堂々と言わないのはその実不信仰であることを表しちょーようなもんでしょうし、自己中で不躾にもワクチンやマスクを強制することほどではないにせよコ ロナ茶番について堂々と指摘せんのもこの茶番を容認してるのに等しいと学んだこともあって余計に恐ろしく感じました。

、自分を甘やかすこと

我々人間は普通、どうしてもできる限り楽をする方に行きがちですが、こげなるのも自己愛があることが一つの原因だろうと考えます。楽な方を選ぶことにより、いろんな場面で「まあいいか~」という妥協の精神の要因にもなります。過去には自分を甘やかして宿題を完成させるのを後回しにして期限ぎりぎりに焦って適当にやり、その結果その作業をしたことによる成果はとてもむなしいものとなりました。その場限りの気楽を求めて自分自身を成長させるという大切なことを蔑ろにすることになるので結果としてはむしろ悪いはずだと分析はできるのですが、いざ改めるとなると容易なことではなく、とても厄介な性質です。

、自分を必要以上に良く見せようとすること

人に良いところを見せて褒められたいという気持ちは程度の差はあれ多くの人に存在すると思われます。わしはかつて他人に良いところを見せようと必死になったことが何度かあったのですが、そのうちの多くで自分の想定より思うようにいかずに、大きな失敗をしたわけではなかったものの恥ずかしい思いをしました。自分を必要以上に良く見せることは嘘をつくことと同等ともなる可能性があるし、なにより精神的にも苦しいです。今となっては自分はかつてなぜそげに力んでたんだろうか、と感じます。反対に、自分自身を飾らずありのままに示すことでとても気楽になり、問題解決もしやすーなったと実感しております。

 

以上のことはあくまでも例示であって、恥ずかしい話ですが失敗はもちろんこれだけではありません。自己愛は様々な罪の要因もしくは様々な罪のもととなる悪い心や欲の要因となると思います。考えられるのは、臆病、高慢、自己顕示欲、嘘をつくこと、怠惰、など…。例えばですが、中には複数人での共同作業において自分は面倒な目に遭いたくないからと他の人に面倒なことを押し付ける人がおるし、自分さえ良い思いをすればいいけん周りなんかどうでもいいと考える人もいます。もっと大きな話だと政府や地方行政らも国民の利益よりも自分たちの地位や名誉や利益を優先して日本国民を苦しめていますし、弁護士も改憲の危機を本気にせず自身の身を守ろうとしちょー人ばかりが現状でこのままだと本当に自民党改憲草案による改憲がなされてしまいます…。医療従事者の多くやその他専門家らの多くも自己保身に走ってこのコ ロ ナ茶番を終わらせようとはせず悪に加担しています。このような様々な事例が、多くの人間の悪い性質と大いにつながってることを証明してるからです。自己愛は時に大きな災難の元となり、実に不幸です。

 

自己愛を完全に克服しなければ主イエスが示してくださった手本に倣うことはできないし、使徒たちやダニエル書三章の三人のような信仰による正しい行いをなすことはできません。福音書に記録されているように、主イエスは洗礼後には福音伝道に生涯をささげ、敵対者にも臆せず非難をして誰にも媚びることもなく、天の父なる神の御意志を最優先にしてご自身の時を悟って捕らえられた時も抵抗をせず、どがんに侮辱されるなどして酷い目に遭っても屈することなく(そもそも罪を一切犯してもないのに)ただ神の御計画の一つである十字架の贖いを最終的に成し遂げられました。使徒たちは鞭で打たれて辱められ迫害されても弱気になーどころかむしろ喜んで伝道に励み続けました(使徒言行録五章四十から四十二節を参照)し、ダニエル書三章でのそれぞれシャドラク、メシャク、アベド・ネゴと呼ばれたハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの三人は当時の古代バビロン王ネブカドネツァルによる偶像礼拝の命令に神への信仰のために従わず燃え盛る炉に投げ込まれても全く屈することがありませんでした。終末の兆候は既にあり、もう大患難時代もそう遠くはなく彼らのような姿勢・行いが求められるに違いありませんが、いずれも自己愛が強く残ったままであれば同じようなことはできず、無様にも悪に屈してしまうことになるでしょうね…。そうならんように厳重に気を付けて常に目を覚まして十分に成長し完全な者を目指す必要がありますね。

 

それで、我があんたがたに勧告することを全ての者に勧告する。目を覚ましてなさい。

マルコによる福音書 十三章三十七節(拙訳)

 

 

ところでテモテへの手紙一 六章十節に金銭の欲が諸悪の根源であるという内容が記されていますが、上記で記したような自分の経験や、自分がこれまで見てきた人々の行動等から感じられるように、自己愛も多くの悪い心や行いの源になり得るんでしょう。それゆえ、律法にも第一に神を愛すること、次に隣人を愛することという項目があり、更にマタイによる福音書二十二章三十七から四十節で主イエスがこれらの愛が律法の中で最も重要だと教えておられるのだろうと考えます。本当にもどかしいくらいに、「自己愛」に邪魔されると信仰を強めることはできないし、満足に善い行いを成し遂げることができません。たとえ善い行いをしても、その動機が自分本位で不純なものとなります。他の自我と同様に祈りながら信仰ゆえに改善に努めなければなりません。ちなみに、自我を克服する方法を知るのに役に立つこちら(自我との戦い | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp))もよく読まれることをお勧めします。

 

 

また、人間今までの行動を冷静に振り返ってみると、相当良心が欠如しちょーわけでもない限り、大なり小なり悪い行いを積み重ねてきたものだと感じられると思います。今回の主題は自己愛についてですが、こげして自分自身を客観的に振り返ってみれば聖書にあるように正しいものは一人もおらんこと(詩編 十四編三節、五十三編四節を参照)や人間は皆罪深い存在であることを同時に理解できますよね。ほとんどの人間は自身が思ってる以上に自分の身がかわいいと思っています。自己愛が強く存在してます。人間社会で生きてれば時々とんでもない自己中心的な振舞いをする人に遭遇することもありますが、それはあまりにその人が強い自己愛を持っちょって抑えきれないほどなだけであてそがーな人らだけが自己愛が強いのではなく、神の視点から見れば人間皆生まれつきの性質であれば少なからず自己愛があるように映るはずです。もちろんわし自身も例外ではなく、それを聖書から学ぶようになってから気づかせていただきました。周囲の人々を見ても、自分のためじゃなく主なる神のために必死に生きているという人なんてほぼ誰もおらんのではないでしょうか。間違いなく皆が自分や身内の生活の質の向上及び維持のために、自分が幸福になるために、といった目的で日々の生活を営んでいて、無神論者は論外としてたとえ神の存在は信じちょってもその「神様像」というのは自分たち人間にご利益をくれる存在という極めて虫が良いものであり何か災いが起こった際には神に不平不満を言ったり呪ったりするでしょう。世の中が不安定で悪い状態であることについて神を責めるようなことを思うばかりで、自分自身の行いの悪さ(自分勝手に自己中心的に放縦に生きていることも含め)を省みることは決してない人が非常に多いです。天の父なる神の視点から見ればこがな多くの人間の自己愛の強さは目に余るものに違いないです。他者に対して自己中な振舞いに見せんように努めるだけで十分というわけではありません。繰り返しになりますが、自己愛の精神とは主イエスが説かれた「慈愛の精神」とは正反対であるし、様々な悪にもつながってなんの良いこともない以上、容易ではないけど自己の内面を本当の意味で清めるためには取り除くことが必須です。(自戒も込めて)

基準は創造主なる、天の父なる神の秩序です。

 

終わりに

もう自由な時間が非常に少なくなってきています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(テモテへの手紙二 三章十六節)」と書かれている通り、聖書への正しい理解によりそれまでは知ることができんかったこの世界のことや人間の性質や神の御計画等多くのことを知ることができ、正しい価値観を持てるようにもなります。聖書の真理の実践により、過去の義人たちのように強い自己愛も消えて他者のため、何より神のために精一杯はたらけるようになります。まだ読んだことがないのなら、一度でもご自身でよく読んで聖書が真理だと心から確信していただけたらと思っております。そうしたら、主イエスが求めておられる、一点の落ち度もない「完全な者」を共に目指していきましょう。