我が家は歯の矯正歯科に2名通っている。
そこにだけフォーカスすると、なんだか生活にゆとりがあるように聞こえなくもない。
結婚する前から一目見れば「歯の矯正が必須だろうな」レベルの歯並びだった夫。
生まれて初めての歯科検診で歯が6本しか生えていないのに「狭窄」と書かれるレベルの長男。
夫はどの歯科に行っても「矯正しましょう」と勧誘され、長男も「矯正は必須、いつ始めるか」と言われるので、そのためにおカネを準備しておかなければと思い生活していた。
あるとき、義実家へいったときのこと。
義母が夫に「おカネあるんだろうから、歯を治しなさいね」と言ってきた。
その歯並びじゃあ、ダメだろう、ということらしかった。
そのくらい、誰が見ても「お直し」が必要な歯並びである。
しかし、わたしは義母からこの言葉を聞くたびに、モヤモヤしてしまう。
それは、「なぜ夫が子供の時に治してくれなかったのか」ということ。
おカネの面だけではない。
痛みや、治療期間や、早期矯正することで温存できたかもしれない歯のこととか…おカネのことももちろんそうだ。
大人の矯正の方がすべて多くかかるのではないだろうか。
大人の矯正費用は100万円から…。
結婚し、子供たちが生まれ、普通の、ごく一般的な会社員が、一度に100万円以上のお金をかけ、会社にいきながら抜歯したり、器具をつけたり、メンテナンスのために会社を休んだりしているのをみると、これだけ時間も費用も取られる治療は子供のときにしておくべきだったという思いが拭えない。
長男も同じ時期に矯正を始めた。
が、こちらは痛みもほとんどなく、ぐんぐん動き、治療がどんどんすすむ。
長男に比べ、夫の歯はなかなか動かず、痛みも強く、挫けそうになる、と日々つらさを訴えてくる。
歯の隙間をあけるためのゴムを仕込んだときも、夫は2週間経っても痛みと違和感しかない、と言っていたのに対し、長男は1週間経たずにポロリと外れてしまい、歯科に行くと「十分な隙間ができているため、次の処置に進みましょう」と言われたほど。
そのくらい、大人と子供の矯正は違うことを目の当たりにし、どうしても、子供の時に治療してくれていれば…と思わずにいられない。
義母は、「夫が矯正させて欲しいと言わなかったから、やらなかった」「言われてもそんなお金なかったけど」と言った。
一般的な会社員の義父に、フルタイムで働く義母、子育てをフルで手伝ってくれ、孫のための費用も出してくれていた祖母、そしてバブル期…我が家より恵まれた環境だったのでは?と思うのだが、義母は自分のためにおカネを使うことの好きなひとだった。
そんな義母は「子供の歯はちゃんと矯正してあげなさいね」と言う。
自分はしなかったのに、こちらにはそれが親の勤めとして当然だと話す。
夫についてもそうだ。
夫自身が働いて賃金を得ているのだから、自分のことは自分でおカネを出してなんとかしなさい、と話す。
もやもや。
子供の医療に関することは、親である我々が責任を持って治療すべきだと思ってるし、自分のことは自分でお金を出すのが当たり前。
わかってるし、間違ってはいない。
でも、2人を治療するとなると切っては切れないおカネの問題が出てくる。
そのために、日々せっせと節約に励み、自炊を心がけ、お得なスーパーまで自転車を走らせている。
それについては、夫や子供のためだと割り切っている。
わたしが惣菜や外食に頼らずに過ごし、出かける時は水筒を持参し、微々たる金額かもしれないが節約を心がけるのは、働いてお金を稼いでくれる夫のおカネを大事に使おうという気持ちでもある。
対して義実家は、水筒など持たず、自宅のお茶すらペットボトル、エコバッグも持ち歩かないのに、出先でレジ袋はみっともないから、とエコバッグを買う、という我が家とは真逆なお金の使い方をしている。
まるでアリとキリギリスだ、と思ってしまうことが多々ある。
いま、おカネが掛かったとしても、長男が歯並びで悩まないようにという気持ちしかない。
そうすることで、しなくてもいい苦労と痛みが減るのなら。
ひとのおカネは自分の懐が傷まないから言いたい放題言えるのよ。
笑ってそう話す義母とはどこかで線を引かねば付き合うことは難しいと感じる。
夫が社会人になったとき、高額な家電や義実家の車の費用負担などを夫が負担していた。
自分の家族と義理の家と割り切らねば大変なことになりそうな予感がして、いまの距離感を保つようにしている。
夫は義実家のためにお金を使うことをあまり躊躇わなかったが、少し距離をとり周りの人たちとの親との付き合い方に目を向けることで自分の境遇が一般的ではなかったと気づき始めた。
わたしと夫は、「子供のために」してあげたいと考えているので同じ向きを向いていて良かったと思う。
その根底にあるのは、「自分は親にしてもらえなかったから」というものであるから、ポジティブなものではないのだけど。
それでも子供たちが大きくなった時、「あのときはありがとう」と言ってもらえることがひとつでも思い浮かぶ親でいられたらいいなと思う。