子供が習い事は行くのに、水筒いる?と夫が声をかけてきた。
うん、いるよ。と答えたのに、夫は水筒を用意していなかった。
それに気づいたのは習い事先へついたあとのこと。
夫が「水筒、いる?」と聞いてくれて「いるよ」と答えたことでわたしの中で水筒は夫が用意してくれると思い、最後に確認をしなかった。
「水筒いる?って聞いてくれたから用意してくれたのかと思った💦」と言うと夫は、「水筒いる?聞いたけどそのあと(めぇ子から)返事があったのかなかったのかわからなかったから(用意しなかった)」と言った。
子供の持ち物に水筒がいるかいらないか気に掛けられるようになったのはこの十数年での進化だと思うが、いるかいらないかの判断はできないし、わたしに尋ねているのにその回答を聞くことができない。
夫が、子供に水筒がいるかどうか気にできるようになった!と喜ぶべきなのか、もう少し頑張って…と言うべきなのか…。
わたしが逆の立場なら、自分が尋ねた内容に回答が無ければ聞こえなかったのかな?と思い、もう一度聞く。
なんと言っているから聞き取れなかったら「ごめん、もう一回言ってくれる?」と聞き直すだろう。
子供たちとの関わりは、拙い表現だったり、聞いてなかったり、なんと伝えていいのかわからなくなりフォローが必要だったり、さまざまなパターンを想定するようにしているつもりだ。
公園に来る、と言っているのに実は公園に行こう、と言いたかったり、使っている言葉が本来の意味とは違うことさえある。
だから、正しく伝わっているか、子供が伝えられているか、日常のなかで当たり前に確認しながら過ごしている。
子供の方が、「いま、なんて言ったの?」などというアクションを起こしてくれるが、夫は「わからなかったらわからないままにする」ので、わかっているのかわかっていないのかがよく分からなかったりする。
子供なら困っていそうな振る舞いをするが、夫は大人なので、さもできています、というような顔をしている。
身支度のバタバタの中で子供たちを1番に気にかけているので、フォローしてくれようとしている夫のフォローをしながら身支度をすすめる余裕はわたしにはない。
今回は水筒だったが、夫とのやりとりは始終こんな調子なのだ。
ある日、夫が掃除機をかけてくれていた。
ここだけ聞くととてもいい夫のようである。
が、夫が掃除機をかけてもあまり綺麗にならず、「申し訳ないけどここのゴミも吸い取ってくれる?」と声をかけることがある。
すると夫は「そこはもうやったよ!」と怒り気味に返してくる。
わたしは、その場所を掃除機をかけたかどうかではない。
ゴミが取れたかどうかで判断しているが、夫は一度掃除機をかけたところはゴミが取れているはずだ、と主張する。
そして一度掛けで綺麗に取れなかった場合は掃除機の性能のせいにするのだ。
このあたりに夫の生きづらさをチラホラと感じるのだが、当の本人は自分だけなら気にならないし、自分だけならこんなにゴミが出ることなく生活できると、トンチンカンなことをいい始める。
結局、いつも振り回されているようななんとも言えないそんな気分になりながら過ごしているので、安心して人に任せるということはできない。
夫がある用紙を探していて、冷蔵庫の横に貼り付けてあるよ、と声をかけたが夫は見つけられなかった。
その用紙は冷蔵庫の下の方に貼ってあったのだが、貼る場所が悪い!と夫が叫んだ。
上のほうは、子供たちの学校のスケジュールが貼られているのでどうしてもその下になってしまっただけなのだが。
夫は俺の目線の高さになかったから見つからなかった!と言った。
わたしはその様子を不思議なひとだな、と思い眺めていた。
夫が探し物ができない理由はこういうところなのだろうなと思った。
子供時代を常に責められながら過ごしたわたしは、夫がこうして叫び続けることが、責められているような気がしてならない。
わたしがおかしいのだ、と夫は言う。
夫は社会で働いていて、わたしはそうでない。
わたしがおかしいのだろうな。きっと。