思ってることを言えずに我慢し続けた結果、自分の気持ちがわからなくなって、自分が何者かもわからなくなってゆく…というお話だった。
心がザワザワした。
朝からなんてものを見てしまったんだ、と後悔した。
子供向けの番組なので、子供にはちゃんと自分の意思を相手に伝えよう、というだけのものだったのだけど。
ずっと、カゾクのためという大義名分を掲げる両親のもと、欲しいものも、食べたいものも、遊びたい気持ちも全部飲み込んで過ごした子供時代がいまだにわたしの心をザワつかせる。
わたしがしたいことや欲しいもの、身につけるものは全て「下らない、お金の無駄」と切り捨てられた。
段々と、何が欲しいのか、何がしたいのかわからなくなっていく感覚は、きっと一般的なひとには分からないんだろうと思うと少し寂しくも思うし、そうでないひとを羨ましくも思うし、こんな気持ちわかるひとがいなければいいのにとも思う。
子供たちは無邪気に「自分の気持ちがわからなくなるなんて、あるのかな?」なんて言う。
あるんだよ。
と思うけど、「あるかもしれないね。」と答えるにとどめる。
「うまくいかないかもしれないけど、うまくいくかもしれないから、まずは言ってみようね」と付け加える。
ザワザワした気持ちが邪魔してうまく伝えられているかわからなかった。
わたしは、自分のような生き方がいいと思ってない。
子供たちに、明るく、楽しく、人生を楽しんでもらえるように、とポジティブな言葉のシャワーを浴びせるよう心がけているつもりだ。
でも、自分の過ごして来た子供時代とまるで違うことを子供たちにしようとしているので、正解なのか不正解なのか、常に葛藤している。
足が大きくなった次男に靴を買った。
ピカピカの靴を履き、次男はとにかく気に入ったようだ。
大人になったら履くことに勇気がいるようなド派手なデザインの靴だ。
子供が履くとなんともかわいらしい。
大人になると服とのコーディネートとか、自分に似合うだろうか、とか値段が、とか。
雑念ばかりか湧いてなかなか勇気がでなくなることもあるが、子供は「自分が気に入った!身につけたい!」というその気持ちだけでいろいろなことにチャレンジできるすごい生き物だと思う。
わたしは…つま先に穴が空いても、靴底に溝があればまだ履ける、と言って靴の底に穴が開くまで買ってもらえなかった。
デザインも選ばせてもらえなかったし、サイズも母の言う幅広で母と同じサイズのものを履いていたので大人になってから計測してもらったら1センチ小さく、幅広でないもののほうがよいとアドバイスされた。
確かに運動をするとよく靴が脱げてしまった。
母は、靴紐をしっかり締め上げて結ばないから、運動音痴だから、と言っていたが、恐らくサイズが合っていなかったのだと思う。
わたしにとっての当たり前は、きっと世の中の当たり前じゃない。
その事実は内心苦しく思うことも多い。
でも、わたしはこの苦しさを子供たちに繋げてはいけないと思う。
子供たちが、それぞれの子供らしく、自分の気持ちを発露していけるような環境は、親や家族が作っていくものなのだろうな、と日々感じる。
わからないとき、聞けるひとは両親や兄弟だったりすることも多いだろうけど、わたしはどこに聞けばよいか調べ、役所などへ直接確認する。
ずっとそうして対処して来たので、なんでもできていいね、などと言われると複雑な気持ちにならなくもない。
大人から見るとワガママに見えたりする子供の主張もひろい心で受け止めてあげているだろうか。
反抗する様子もなく、常に楽しそうに仲良く過ごしている子供たちの姿を信じてたくさんの愛情を注いでいけたらと思う。