わたしはできるだけ子供の成長に関する出来事に自分が関わりたいと思っている。

と、こんな風に書くととてもべったりとした親のように思われるかもしれない。


長男が新一年生のとき、朝の登校に付き添った。

なので次男にも付き添ってあげたい。


子供の行事のお手伝いのアナウンスがあったとき、参加できそうならできるだけ参加するようにする、とか。


子供に関する連絡事項があれば連絡帳に書いたり電話をして、教育機関に協力してもらうとか。


その程度なのだけど。



小さい頃に習い事にチカラを入れなかった理由のひとつに、我が家の子供たちが、ひと様に預けて何かを習得するタイプではなかったという事実がある。

どちらの子供も、「習い事の型に嵌める」というやり方があまり合ってないような気がしていた。

特に、長男は、自由な発想で遊びを作り出すことが好きな子だったので、型に嵌めるやり方では「なぜ周りの子供ができているに、うちの子はできないのか」と悩みになってしまっていたのではないか、と思う。


遊びの中で様々なルールやモラルを教え、身の回りのことができるように関わる。

幼児のうちは特に特別な技能や技術が身につかなくたっていい。

本当にやる気になればある程度のことはあとからでもカバーできる。


あんなに不器用でお箸や色鉛筆もうまく持てず、へろへろの絵を描いてはみんなみたいに上手く描けないと泣いていた長男だったが、絵を描くのが好きで諦めなかったからか、いまはとても上手なイラストを描いている。

1週間かけて1枚の絵を完成させてくる様子は、本人がやる気になって諦めずに貫徹できるこころがあればなんとかなるというお手本のようだと思った。

幼稚園の頃は「長男くん、なんであんなに絵が下手くそなのー?」なんて揶揄され泣いたこともあったが、クラスメイトに「その絵、うまいからコピーして頂戴!」と言われたんだ!と嬉しそうに帰った日のことを忘れない。

コンビニに行き、コピー機の使い方を教えながら、どれどけ自分が頑張ってこの一枚を仕上げたからを語る長男の顔はそれは嬉しそうだった。

印刷されたイラストを見て、思っていた発色が出なかった、と呟いたが、だからこそオリジナルの良さがあるのだと説明すると、なるほど、と納得してくれたようだった。



みんなのようにスイスイとできるようになった子では決してなかった。

みんなのペースで取り組ませていたら、なんでも取り残されてしまっていたと思う。


自宅で、ゆっくり、じっくり、確実に少しずつ取り組ませることが長男という子には合っていたのだと思う。



親だから、とか親なんだから、とか義務感でそうしているわけではない。


この子たちが、大人になった時に困らないように。


不器用で、鈍臭くてもいい。

ひとつずつ誠実に取り組むことでうまく行くことだってあると思ったから、彼らの人生のために、わたしにできることはしてあげたい。


本当にそれだけの気持ちしかない。



自分でやりなさい。というだけで何も教えてくれなかった自分の親のようになりたくなかった。

怖くて眠れない日も、そのうち1人で寝るんだから早くできるようになるべきだと幼稚園の頃からひとりで寝ていた。

一年生に上がる時だって、送り迎えどころか身支度だってひとりでやるものだ、と手伝ってもらったことはない。

進路の手続きも、引っ越しの準備も、いつもひとりで乗り切った。

なんでもある程度できるようになったのだから、いいじゃないか、と言うけれど、わたしは他人の頼り方を知らない。

誰も助けてくれるわけない、と思うから自分でやれることにしか手を出さない。そんなずるい人間になった。


子供たちの新学期に向けての名前書きをしながら、ふとしたのきょうだいたちの名前書きをていたことを思い出した。

母はそうした子供の面倒ごとをわたしに丸投げしていたので、わたしがやっていたが、あとになってこうして思い出せる記憶の引き出しがたくさんあることできょうだいたちとの繋がりを感じる気がする。

あれやってあげたな、これが好きだったな、これで苦労したな、というたくさんの思い出は、関わることでしか獲得することができないと思う。

そのときは、ラクをすることを1番に考えてしまうのだろうけど、めんどうだと思うことを避けて子育てした例がわたしの親だと思うと、わたしは子供たちに関わりたいと思う。

親という立場でうまく立ち回り、うまく関われているかと言われたらへっぽこでポンコツな親だとは思う。

でも、失敗しているわたしもうまくいったわたしも、子供たちはちゃんと見ている。

失敗しても失敗しようと思っていたわけじゃないのはわかるよ、と励まして許してくれる子供たちを見ると、わたし悩みながらも頑張ろうとしている気持ちは伝わっているのかな、と思う。



うまれたての赤ちゃんの頃に猛烈に頑張っていた親ではなかったと思う。

周りのママさんたちのように、ベビーグッズや除菌グッズ、ベビー関連の情報を集め、熱く育児を語るそんな熱意のある親ではなかった。

健やかで、ご機嫌が良く、よく食べ、よく眠り、よく遊ぶ、そしてたくさん抱っこして一緒に笑う。

それさえあれば便利なベビーグッズもYouTubeであやすことも必要なかった。


子供たちが大きくなり、赤ちゃんの頃はあんなに熱意を持って子供に関わっていたママさんたちは、子供に対する熱意は薄れていると感じる場面が多い。

少し転んだだけで病院へ!と言っていたママさんは、子供のことで学校から連絡が来ることが煩わしいと言い、習い事をたくさんさせなきゃ!と意気込んでいたママさんは、学校の保護者が協力するような行事なんかめんどくさいからやめたらいいのに、と言っている。

みんな、小さい頃は子供が喜べば、子供の能力が伸びれば、子供の経験になれば、と言っていた人たちは「子供のことは学校や習い事の先生がなんとかしてくれたらいいのに」と言うようになっていた。


親以外の大人は、親にはなれない。


あるママさんは、先生があたりだったから、子供のことは先生におまかせしていたから子供のことはまったくわからないんだ、と言うが、親は親にしかできない役割があると思う。

先生からすれば、我が子とは違うのだから真剣に子供のことを考えていてくれているようで、最終的に責任を持つわけではなく、仕事として関わっているに過ぎない。


わたしは、自身が子供の時は親が居なくともなんでも自分でできていたが、できるから放っておけばいい、できるようになって当たり前なのだから、面倒なことはやらせないでという親の姿を覚えている。

親子で笑い合っているクラスメイトの姿を思い出すと、わたしもあんなふうに笑い合える親子の様子が羨ましかったんだと思う。


失敗も、成功も、子供とともに笑い飛ばせるような、そんな親子でいたい。