弟を亡くしてすぐの頃、タイトルが目に入り無意識に手に取った本
重松清の「十字架」に運命的な出会いを感じた。いじめを苦にした中学生が残した遺書に“親友”として名前を挙げられた少年の、20年にも渡る複雑な心境の移ろいを綴った作品なのだが、遺された者の遣り切れなさ・空しさ・儚さみたいなところに、今の自分と通ずる部分があって、知らず知らずのうちに心のひだに染み込ませるが如く、一字一句じっくり時間をかけて読み込んだ。
先週の土曜日、葬儀にも駆けつけてくれた餅男夫妻と茶子・織イブの4人が、励ます会を開いてくれた。大学を卒業してから既に30年も経つというのに、今尚こうして寄り添ってくれようとする気持ちが、本当にありがたい。お互い様ではあるものの、人格形成途中の時期に出会い・付き合いを始めて、ある意味人間的に未熟で荒削りだった素のままの自分を、受け入れ許容し認めてくれた掛け替えのない親友達なので、ついつい気持ちが無防備になって、ここ数週間心の奥底に溜まっていた膿のような想いを、思わず吐露してしまった。
「てめえんちの恥をさらすようだけどさ、ここ何年か我々兄弟が悩まされてきた親父の借金問題ってのがあってね、もちろん酒や女や博打でこさえたものではないんだけど、いわゆる年金生活になってからも、日々の生活水準を落とせずに積もり積もったカードと住宅のローンをさ、もう15年くらい兄弟3人で支援してきて、2年前にはまとまった額の繰り上げ返済までして、これでもうケリがついたと思ったら、それでも一向に減っていかなくて。。。去年の夏かな、このままだとお金の事で揉めて家族が・兄弟がバラバラになるぞっ!て、クソオヤジと大喧嘩したんだよ。その日の実家から帰る電車の中で弟とさ、あの調子じゃすぐには改まらないから、もうしばらく3人で頑張ってゆこうってね。
それが、今回アイツが亡くなって、生命保険やら死亡退職金やら1千万単位の金がたくさん入って来て、ぜぇーんぶチャラになったんだよ。アイツ一人に借金返済背負わせて、アイツ一人が体を張って家族を守ってくれた。。。
そういう風に考えると、もう弟に対して申し訳なくてさ、たまらなくなるんだよな。
しゃくり上げながら周囲をはばからずに涙を流す30年前の同級生に、織イブが昔と同じ温度と温かい口調で、優しく語りかけてくれた。「そういうポッキーの気持ち、きっと弟さんに伝わっているよ。そんな風に自分を責めて、追い込んだりして、弟さん喜んでくれないよ。」あぁ、こーゆーの懐かしいなあ。こうして学生時代何度も彼女は、俺を励ましたり慰めたりしてくれたよなあとノスタルジーに浸りながら、さっきとは違う味の涙
がこぼれそうになるのを堪えて「たぶん俺が逆の立場でも同じような事を言うと思う。でも果たしてそうなのかな?って最近思っちゃうんだよね。刑事ドラマなんかの常套句でよく使われるじゃない。“そんな事をしても亡くなった○○さんは喜びませんよ!”みたいなね。それって生きてる側の勝手な思い込みなんじゃないかってさ。ひょっとしたら弟は“兄貴ずるいよー。オヤジの借金亡くなってホッとしてんだろう?うまいもん食って、楽しい時間過ごして。それって俺の遺した金のおかげだろ!?”なんてさ。」「そんなこと、弟さんが言うわけ無いでしょーに
」「わかってる、わかってるんだけど、そんな風にして自分自身を定期的に責めてゆかないと、心のバランスが取れなくなりそうなんだよ
」
ひとを責める言葉には二種類ある。“ナイフの言葉と十字架の言葉”。
「ナイフの言葉は胸に突き刺さるのよ。痛いよね、すごく。なかなか立ち直れなかったり、そのまま致命傷になることだってあるかもしれない。でも、ナイフで刺された時にいちばん痛いのは、刺された瞬間なの。十字架の言葉は違う。十字架の言葉は、背負わなくちゃいけないの。それを背負ったまま、ずうっと歩くの。どんどん重くなってきても、降ろすことなんてできないし、足を止めることもできない。歩いてるかぎり、ってことは、生きているかぎり、その言葉を背負いつづけなきゃいけないわけ。」![]()
弟に“ナイフの言葉”はもちろん、“十字架の言葉”を課せられたわけではない。自分自身の『十字架』は、弟に対してきた自分の想いだとか評価だとか、彼という人間の本質を見極めきれずに、過小評価してきた自分自身の傲慢さ、浅はかさ。。。弟の生前の姿を、会社の同僚や飲み仲間なんかに聞けば聞くほど、あまりにも弟の事を知ら無さ過ぎた自分自身に愕然とする。そんな後悔と自責の念が、日常の仕事なんかにかまけてカサブタ化しそうになった時、たまーに爪で引っ掻いて剥がしてやる事が、自分なりの供養なんだと思おうとしている?
「なんかね、親父もおふくろも、傷口のかさぶたが乾きかけたら爪でひっかいて剥がして、また固まってきたら剥がして、っていうのを繰り返してきたような気がするんですよ。」![]()

「今年でもう20年ですね。藤井君のことを、あなたはまだ背負っていますか?昔あなたに言われた“荷物を下ろせ”という言葉を、最近よく思いだします。それって無理だよね、と思うのです。わたしたちはみんな、重たい荷物を背負っているんじゃなくて、重たい荷物と一つになって歩いているんだと、最近思うようになりました。だから下ろすことなんてできない。わたしたちにできるのは、背中をじょうぶにして、足腰をきたえることだけかもしれません。
」弟が亡くなった事を重たい荷物だとは思いたくはない。彼が生きてきた、また生きようとした人生をイメージしながら2人分生きる事、それが自分としての“背負う”事なのかな?もしそうだとしたら、自分も今は、心と背中と足腰を、丈夫にしてゆくことだけを考えてゆければと思う。