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雑文・ザンスのブログ

映画・読書・旅行などの話題。そして時々、資格。

・本を読んでいたら、昔の疑問が氷解するときがある。今回は、この本を読んで、四天王寺の「夕陽」の謎がわかった。つまり、大阪の四天王寺がなぜ、「夕陽の彼方の極楽浄土に関係があるのか?」ということ。去年の秋に「名宝展」に行ったがその時のポスターは、以下のものだった。門があって(西門)、そのあたりに現在の宝物館もあるという。「極楽浄土」云々がよくわからなかった。

 

・この本の記述(pp.98-105)によると、中世になってから浄土信仰と結びつけて、夕陽がクローズアップされた。つまり、西に沈む夕日を心の中に思い描くことで極楽浄土を観想する「日想観(にっそうかん)」という修業の浸透がある。この観想の方法は、浄土三部経のひとつ『観無量寿経』に記述がある。その内容は・・・・「みな衆生は、一心に西方を想念すべきである。そもそも西方浄土の様子を心に思うためには、目の見えるものはみな日没を見よ。」というもの。四天王寺の「夕陽丘」は、「上町台地に位置して、西側が急傾斜の崖をなし、昔は、海が入込んでいたためこの地から難波の海を一望することができた。平安末期に浄土信仰が広まり、四天王寺の西門付近は落日から西方浄土を憶念する日想観を修する地として多くの人が参集した。

 

・なるほど、昔は、すぐ先から海が拡がっていたのだ!

 

他には、

・あのひとの・ゆう/高倉院の憂鬱(pp.131-137)で、病気がちだった高倉院(父は後白河院。母は平清盛の妻の妹・慈子。中宮には、清盛の娘、徳子(のりこ)が入内していた)が、清盛からの強い要請を断われず、厳島神社への御幸を実施する。その際、遷都が予定された福原の地も訪れる。・・平家公達の屋敷は船のまま入って釣殿に降り立つことができたそうだ。川の流路を寝殿造りの池につなげたものか?・・・など紹介されている。その後、体調を崩し、崩御。高倉院は、笛の名手としても知られ、また、天皇と近臣・儒者による独自の知的サロン形成に注力した事で知られているが、平清盛の圧力には悩まされていたようだ。その第一子は、徳子(のちの権礼門院)との間に生まれた(壇ノ浦で亡くなる)安徳天皇だ。

 

・「いちにち」がどのように仕切られていたか?現在との違いは?を時刻を図示してしめしている。(まえがきix)。古典の世界にしばし遊ぶのにいい本だ。