・「南北朝時代」の先は、足利尊氏が登場する「室町時代」だ。「通記」を読んでみよう・・と探したら、この本が見つかったので、一読した。初代(尊氏)〜8代目までは、足利尊氏による鎌倉幕府の倒幕、足利将軍家の成立。それを支える重臣たちの争に端を発した応仁の乱。「その結果、将軍家は弱体化し、群雄割拠の戦国時代への突入」の時代が到来する。9代(義尚)~15代(義昭)まで将軍は権威を保持し、影響力を行使続けた。
・そういえば、足利将軍歴代の像が収められている等持院を見に行った事がある。「足利尊氏が日々念持仏として信仰していた利運地蔵尊を本尊とし、達磨大師、夢窓国師を左右に、足利歴代の将軍像(*5代義量と14代義栄の像を除く)が、徳川家康の像と共に両側に安置している」(等持院HP)。*5代義量(よしかず)は、在位2年ほどで、19歳で病没している。また13代将軍「足利義輝」のあとを継いだのが、室町幕府14代将軍「足利義栄」(あしかがよしひで)。しかし、室町幕府将軍としての在職期間はわずか8ヵ月。そもそも就任自体が難航し、室町幕府将軍になったあとも、「足利義昭」(あしかがよしあき:のちの室町幕府15代将軍)を擁した「織田信長」が早々に上洛、失脚へと追い込まれた。
・等持院の将軍の木像を見ると、「強者どもの夢のあと・・」という気がしてくるが、子細に見ていくと、結構人間臭く、やはり、「侍の大将」なのである。
・この時期、日本国内は下剋上の風が吹き荒れ、旧来の秩序は破壊されてしまった。地方からの年貢の上に成立していた天皇制も脆くなっていた。全国の土地の所有を巡る係争は中央の幕府の裁判所が裁判を行った。その裁判結果を徹底させるべき地方の主体は守護であった。そして守護の地位が親族への世襲が許可されて以降、これら守護の有力なものは「大名」になっていく。
・6代将軍義教(よしのり)は、僧形であったので、「征夷大将軍」の称号を受けるのは髪が生えそろってから・・と周囲からアドバイスを受けている。「天皇に征夷大将軍の称号を授けられてはじめて天下を差配する」という枠組みはそのままに、実質は足利家が牛耳るわけだ。「天皇と将軍の号は「足利氏だけが天下を差配しうる有資格者だ」ということを示す道具としてなお有用である。」との判断がはたらいた。(p.13)
・有力大名と将軍家の関係は、有力大名は「案件次第」で将軍側からの依頼を受けたり断わったりしたそうだ。つまり、将軍家は自前の兵力も持たず、何か事があっても有力大名に頼るしかない。「こういう互いに依存しあう関係(と同時に互いに牽制しあう)関係が室町幕府の本質であった。(p.7)
・「最後の将軍」義昭は、毛利氏の庇護を受けたあと、秀吉から1万石の所領を与えられその、臣下に下った。その後、僧籍に入った。
