・「国宝」の追っかけをしているが、一番難しいのは、中国美術、及び漢籍。日本が、大いに参考にして大事に保存し、中には、何度も戦火に襲われた中国本土には残っていない印刷物とか、皇帝の芸術作品さえある。しかし、全体の中国美術を把握しておかないと理解に苦しむことになる。

 

・そういう意味では、入門書の類いを読み重ねていくしかない。東博の東洋館で物色していたら、この本「もっと知りたい中国の美術」に出会ったので、読んでみることにした。そしたら、とても面白かった。富田氏の著書は、「王義之」関連本を読んでいる。読書感想:「もっと知りたい書聖 王義之の世界」(島谷弘幸監修・東京美術) | 雑文・ザンスのブログ (ameblo.jp)

富田氏は、「中国の美術」の出版当時(2022年10月)、東博の副館長。昨年10月に九州国立博物館の館長に就任している。共著者は5人。東博の研究員たちだ。

 

清朝六代目、乾隆の目線から紫禁城に蒐集した美術品を扱ってみよう・・という企画だ。清朝は少数民族(夷狄:いてき)に過ぎなかったが、「中華文明が世界の中心に位置すると考える漢民族の「華夷秩序」を克服することは、最大の問題だった。乾隆帝は、礼制や宗教によって天下を治め、さらに、名品の収集と編纂事業によって中華の文化と歴史を掌中に収めた。かくして乾隆帝は、中華の文明を有する者こそが、中華民族であるとする「大一統」の思想を実現し、華夷秩序の問題を解決したのである。紫禁城の収蔵品には、乾隆帝の深遠な思惑がそこここに残されている。」(p.4)

 

いわば紫禁城内の美術品を「レガリア」として自らの存在意義を立証したわけだ。(レガリア(ラテン語: regalia、英語: regalia、リゲイリア)は、王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品である。また、王の所有する特権(貨幣鋳造権、採掘権など)を指すのにも使用される。(Wikipedia)

 

・それで、蒋介石が紫禁城内の美術品にこだわって、戦艦に載せて台湾まで持って行ったわけが納得できた。もちろん今の北京の紫禁城内にもそれなりの芸術品はある。(台湾に全部は運べなかった。別途、全国から集めた物もある。)それなので、本には2つのソースの芸術品が仲良く、一緒に(?)掲載してある。台北のものは「國立故宮博物院蔵」、北京のは「故宮博物院蔵」と書き分けてある。これに日本にある関連作品の写真も入れて解説してある。

 

・祖父(康熙帝)、父(雍正帝)が営々と築き上げた財を使い、数々の海外遠征も行い空前絶後の版図を獲得、清朝は全盛期を迎える。文化面でも『四庫全書』叢書をまとめた。(そのとき、清朝に都合の悪い書籍は,改ざんされたり、あるいは禁書になったとか・・。)第2章「皇帝が愛でた美術」は、もうすこし勉強してから、またとりあげたい。

 

・乾隆帝後の清は先回りして触れておくと・・「乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。・・19世紀には、清の支配が衰え、繁栄が翳った。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。・・19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封制度の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、西欧諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。・・」(Wikipedia)まあ、「世の中」の動きに遅れた訳だ・・。