読書感想:「平安貴族とはなにか 三つの日記で読む実像」(倉本一宏著・NHK出版文庫) | 雑文・ザンスのブログ (ameblo.jp) が面白かったので、同じく倉本氏著の「積ん読く」のまんまの「藤原氏」、「公家源氏」、(「平家」も確かあった)(いずれも中公新書)に手を伸ばそうと考えていた。そしたら、本屋で下の写真の本に出会った。こっちは割と簡単かな?とまず、こっちを読んでみることにした。

キョロキョロ照れ

 

 

・この本では、4人の天皇(平城陽成冷泉花山)がとりあげられている。すなわちいったんは天皇の地位に就いたが、ごく短期でその座を降りている。色々いわれているが、著者によればそれは、権力闘争が裏にあり、いわば邪魔者になる天皇が対抗勢力に引きずりおろされたもので、歴史書が様々に言い立てて、「こんなひどい天皇だったので、別の天皇が即位しました」という流れを作っている。実際、全く同じ図式で非難されたのは、武烈天皇この時は、応神天皇の「五世孫」(しかし、「中間」の王の名前も不明だが??)である男性を継体天皇として登場させるための言い訳の要素が大きかったようだ。

 

・参考のために、いつも天皇についての記述があると参考のため、読んでいる「歴代天皇事典」(PHP文庫)には以下のような記述がある。

◎第25代、武烈天皇:「武烈天皇は五世紀末期に活躍したと考えられている天皇で、妊婦の腹を裂いて胎児を見るなど暴虐な振る舞いが多い「悪王」としてその名を知られている。だが、天皇の暴虐を伝える『日本書記』の記事は、この天皇の代で仁徳天皇の血統が途絶えたことを理由づけるために造作されたものであり、史実ではなかったとの見方が有力だ。」(pp.56-57)あげつられている悪行は、漢籍に出てくるもの、あるいは「国つ罪」として古来、語られた罪状だ。

 

◎第51代、平城(へいぜい)天皇:809年4月、平城天皇は病気を理由に皇位を皇太弟の神野親王(後の嵯峨天皇)に譲った。在位4年。51歳で死去。

 

◎第57代、陽成(ようぜい)天皇:「乱行、奇行が多かった。『神宮正統記』によれば、性格が荒々しく帝王の器にふさわしくなかったという。また、『愚管抄』には、「もののけによるわざわいがひどく、狂気のふるまいはことばにできないほどだった」とある。「陽成天皇はこうした乱行、奇行によって基経ら群臣を再三悩まし、何度も譲位を迫られた。そして、ついに、884年基経によって皇位を廃され、二条院に遷された。その際、基経は陽成天皇に「花見の行幸」といつわり内裏から連れ出したという。」(pp.136-137)。在位9年。82歳で死去。

 

◎第63代、冷泉(れいぜい)天皇:「冷泉天皇は、美しいが奇行が目立ち、病弱であった。宮中で一日中鞠をつき、天井の梁に鞠を蹴り上げることに熱中するなどした。」(p.154)在位3年、62歳で死去

◎第65代、花山(かざん)天皇:「清涼殿の狭い坪庭で馬を乗り回したり、即位式では冠が重いと嫌がったり、父・冷泉天皇の血のせいか奇矯な言動が多く、そうしたことも短命に終わる一つの要因だった。」「即位の日に帳を上げ下げする下級女官を見初めて、いきなり引き入れて交わるなど色好みでも有名だが、法皇となってもその癖は治らず、昔の乳母と懇ろになって息子をつくり、さらにその乳母の娘も寵愛して皇子をもうけるなどした。」19歳(在位3年)で騙されて出家、その後は仏道に邁進した。(pp.157-160)。

 

はっきり、「捏造説」を書いているのは、武烈天皇についてのみ・・・かなぁ。

・しかし、倉本氏の記述に従って、子細に見ていくと、天皇が嫡男が居たにもかかわらず、「交替」を余儀なくされ、自分の嫡男にも地位を継がせることが出来ない状態が透けて見えてくる。背後にいた「反対勢力」は?藤原氏が中心のようだ・。これは、読み込んでいくと、結構複雑だな・・。最初の、「簡単そうだから、まず読むか・・」の思い込みははずれた・・。

 

 

花山(かざん)天皇は、藤原家の兄弟の間の権力争いにも巻き込まれた感じがあるが、「ちょうど2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、それは紫式部と道長を主人公としたものであり、私(倉本氏)もそれに関わっているので」ドラマの中で花山天皇が説話のように描かれ、それが広く国民の間に浸透してしまうのを恐れている」そうだ・・。花山天皇、藤原道長、紫式部、そして詳細な朝廷関連の日記(小右記)を残した藤原実資は、「同時代人」だが、その「一次資料」である「小右記」に花山天皇の異常についての記事は出てこない・・冠を「重い」と言った程度はあるが・・らしい。誰かが意図的に「話を盛った」訳だ。

 

・倉本さんの本では、次に「藤原氏-権力中枢の一族」(中公新書)を読もう・・。やっと、点と点が糸になって、つながってきた感じだ・・。