・相変わらず、ストリー展開は面白く、一気に読めてしまう。なるほど・・おもしろいな!というエピソードが次々と出てくる。他の研究者の著書も折に触れて紹介されているので、テーマによって深堀りしたいときには便利だ。

 

・久能山と日光の位置関係は?実は直線をひいてみると富士山を挟んでいる・・。確かに山頂部を通る。家康の辞世の句は、「嬉しやと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は暁の空」(『東照宮御実紀』)だが、西の久能山で眠りについて、東の日光から、朝焼けの太陽のように目覚めてもう一度出てくる??のだそうだ・・。これは、「・・甲斐の烏駒(くろこま)に乗って、富士山を割るように飛び越えた」という聖徳太子の伝説に拠っているそうだ。(pp.178-179)。また神号は、「東照大権現」で、希望通りになった。(秀吉は「正八幡」、あるいは「新八幡」という神号を天皇に求めたが、八幡は応神天皇なので、これでは応神天皇を引きずりおろしてしまうので、「豊国大明神」が答えだった・・・!)(このあたり、p.172)。何となく、天照大神を想起させるネーミングだが、「東で、頑張りますので・・」と「棲み分け」を匂わせているんだろうとの磯田氏の推定。

 

・また、自分が生まれ変わって出てきたとき、将軍家の家来たちも生まれ変わって、また、自分の家来になってくれるのだろうか?を僧侶たちに聞いているそうだ。確かに、将軍一人じゃ何もできない・・。

 

・そういった、神頼みの半面、徳川政権を長続きさせる現実的な施策を沢山手をうって置いた・・。これで265年間徳川政権は継続した・・。子孫たちが骨抜きにしてしまった施策も数々あり、それが無ければ、もっと続いたかも?まあ、「開国」のプレッシャーは否応なく来ただろうから、このあたりの「読み」は難しいが・・。

 

・「政権を安定させる仕組み」とは何か?、その後、誰がその仕組みを改変してしまったか?が第二章に書いてある。「改易制度」、特に跡継ぎが無く殿様が死んだ場合、すぐに「お家断絶」になる・・のが、「養子」を急遽用意した場合でも「跡目権」を認めるように変わってしまった。島津も潰せたのに、この改変で生き延びてしまった・・。誰がこの改変をやったか?4代〜8代将軍の間で、要は将軍自体が「養子」で将軍位についた人々だった。「人質制度」:大名の藩主の正室、嫡子、大大名の場合は家老などの子も江戸城内の証人屋敷に置く制度。「参勤交代」:ほとんどの大名は江戸と領国に1年づつ住むことを強いられた(その行き来が参勤交代で莫大な資金を必要とした。)。海外から日本へのアプローチが増えてくる中、海防費捻出のために廃止という大義名分が大名側から出され、なし崩し的に廃止された。→諸国の大名が徳川幕府に「反抗」しやすくなる。「城と大船の建造の制限」→これも、海防のうたい文句で「軍拡」に走る。安政の改革では「大船建造の禁」は廃止された。有力藩の海軍力が高まる。幕府が通貨発行権を独占」→各藩がライセンスを得れば通貨(コイン)鋳造ができるようになった。結果、特に「天保通宝」の「贋金」が横行した。この「贋金造り」で儲けたのは、久留米藩、土佐藩、長州藩、薩摩藩など。「反徳川」の軍資金を増やさせる結果となった。「大きな禄高をもった徳川一門と外様大名を幕政に関与させず、大国を領有しない譜代大名と、一万石未満の旗本に幕政を担当させた。」、「力がある者には権限が無く、権限がある者には力はない」という家康が設計した巧妙な仕組みだった。→ペリー来航の時に阿部正弘(福山藩主)は対応に窮し、全国の大名、旗本、朝廷にも意見を聴いた。→政治提言と人材登用が全開となる。

 

・まあ、こうまとめるとやむを得ない要素はあるが・・。「目端の利いた」雄藩がやはり生き残って、反徳川の一大勢力になってしまう・・。その際、天皇を「活用」して皇軍としての大義名分まで整えられてしまうと外堀が埋まった感がある。

 

・第4章は明治政府の初期のころのリーダーたちの動き。岩倉使節団で2年も(大事な時に)留守にする・・のだが、「自分が新政府を立ち上げる。ついては欧米の制度を自分の眼で見てからにしたい」という岩倉、大久保の粘着力がすごい。ただ、その留守の間に「重要な決定は何もしない」はずの、西郷、板垣、大隈は、地租改正を実行する・・。その後、伊藤は新しい議会制度構築のため欧州視察に向かう。