・毎月18日は金銅弥勒菩薩半跏像(666年の作?:重要文化財)と地蔵菩薩像(平安時代中期の作:重要文化財)の「ご開帳」があるとのことで、団体で見に行った。往時(建立は約1,400年前)の遺構が遺り、かつての伽藍の大きさがしのばれるが、南北朝の戦火の中、「灰燼に帰した」のだそうだ。

 

・「河内三太子」と呼ばれた。タテの並びで、叡福寺の「上の太子」、大聖勝軍寺の「下の太子」の中間に位置するので「中の太子」と呼ばれたそうだところで、聖徳太子は推古天皇から賜った播磨揖保郡の地を「鵤(いかるが)荘」と名付け、伽藍を建立し、法隆寺に寄進をした。これが斑鳩(いかるが)寺の始まりと伝えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、・・中略・・。現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。・・中略・・聖徳太子生誕地の橘寺と、墓所の叡福寺を結んだ横のライン延長上にこの太子町の斑鳩寺が位置しているとの伝来がある。

 

・諸説あるが、書物の「裏付け」があるのは、太子建立七大寺。以下の7カ所のみ由来がはっきりしている・。四天王寺法隆寺中宮寺中宮尼寺)、橘寺蜂岡寺広隆寺)、池後寺法起寺)、葛城寺葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。」のだ。(Wikipedia)
 
法隆寺ほか聖徳太子関連(塔を巡る旅) | 雑文・ザンスのブログ (ameblo.jp)
塔を巡る旅 斑鳩寺 三重塔(兵庫県 太子町) | 雑文・ザンスのブログ (ameblo.jp)
塔を巡る旅 叡福寺・多宝塔 | 雑文・ザンスのブログ (ameblo.jp)
 
・墓地に行ったら、「お染・久松」の墓所があった。天王寺屋は野中寺の有力な壇乙のひとつで、先祖代々の墓石とあわせ二人の17回忌の墓石を刻んだとの事だ。