・むかし購入した「若冲」についての解説文を精読中。おもしろい!

 

・芸大美術館開催の「日本美術をひも解く(皇室、美の玉手箱)の後期というか若冲の「動植綵絵」が,8/30日から展示されているはず。もうひとつの国宝、小野道風の「屏風土代」が展示されるのが9/6日からなので、それを待って、「まとめて」見に行こうと思って居る。その間に少し勉強しよう。前に平成館で伊藤若冲の特別展示があり、その時、一度見ていたが・・・。その時の印象は、1)色彩が鮮やか「保存状態」が良かったのか?、2)いつから若冲は「評価」されたのだろうか?それにしても大量の作品が保存されていたもんだ。

 

・1)については、同書p.42に紹介記事があるが、絹に描かれた絵の場合「三重かそれ以上に重なる紙のうち直接絹に触れる肌裏紙をめくると、絹の裏から彩色してあるのを目撃することがある。東洋絵画では古い技法であり、表からの彩色と絹目を透かしてほのかに見える裏からの彩色が重なり合って、表からだけでは作れないような色合いに仕上げることができる。また、表に塗られた顔料が時の経過とともに変色や剥落を免れないのに対して、裏に塗られた顔料は画絹(がけん)と肌表紙にはさまれるため光や空気の干渉が少なく、物理的な損傷も受けにくいという利点がある・・」。この技法が「動植綵絵」にも用いられている。それから、「当時の最高品質の画絹や絵具(日本で初めてベロ藍を用いた例である)を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ない。」(Wikipedia)のだそうだ。

 

・「動植綵絵」が御物になったのは、(p.54にあるが)「1889年、廃仏毀釈で困窮した相国寺から皇室に献納され、それに対し1万円の下賜金が与えられた。」のであった。1978年、法隆寺の宝物について前例があった。「・・宮内省は宝物の献納を許可することとし、法隆寺には見返りに金一万円が下賜された。1878年当時と21世紀の今日とでは社会・経済状況が異なり、金額について単純には比較できないが、当時の1万円は今日の数億円に匹敵する莫大な金額であった。」(Wikipedia)

 

・元々、「動植綵絵」(昨年秋、30幅をまとめて1件として、「国宝」に指定された。今回はこのうち10幅が芸大美術館で展示される。)は、相国寺に寄進されたもので、相国寺では、1769年以降、6/17日の法華懺法(せんぼう)講(法華経を読誦して六根の罪障を懺悔し、滅罪を願う儀式。)の際に、同じく同寺所蔵の若冲の「釈尊三尊像」(ちなみに、中央に釈迦如来、脇侍として、右に文殊菩薩、左に普賢菩薩。東福寺に伝わっていた元の「釈迦三尊図」を模写した。)は、現在は、相国寺境内にある承天閣美術館にあるが、それと併せて展示した。ならべ方は因みに、以下のようだったそうだ。(方丈にかけた。「中の間北側中央に「釈迦三尊像」を掛け、左右に「老松白鳳図」と「老松孔雀図」など「動植綵絵」の対になるような図柄を対照させながら、北壁から東西両壁へと順次掛け並べた。」(同書,p.54)。

 

・若冲は、84歳で死去するまで多作であったので作品も多い。ただし、「若冲には、何人かの弟子がいたことが知られている。若冲晩年に大量に描かれた水墨画には、印章や落款が正しくとも、若冲本人の筆とは認め難い作品が散見する。これらは晩年の若冲が工房を組織し、弟子たちが師に代わって制作した可能性が高い。若冲の弟子として、弟の白歳(宗巌)、若演、意冲、処冲、莱洲、玉冲、馬庸、曇冲、雪樵道人、環冲、独冲、米中、若啓、若拙、若涼、大光、僧維明などが確認されている。」(Wikipedia)とのことで、要注意との事。

 

・アメリカ人のジョー・プライス氏が、日経の「私の履歴書」で若冲との出会いを書いていたが、同氏の貢献も若冲が脚光を浴びる要因のひとつとなった。その大量のコレクションがこれからどこに帰属していくかは要注目。(出光美術館が2019年に、一部を買い上げたとか・・)。

 

(追記1)若冲が最初に「動植綵絵」を奉納したときは、24幅だったそうだ。その違いはどこから来たのか?佐藤氏の解説(p.43)に最初の寄進は父親の没後27回忌で「釈迦三尊像」3幅+「動植綵絵」24幅で計27幅。それが33回忌の位牌を見ると33幅(「釈迦三尊像」3幅+「動植綵絵」30幅)を喜捨したとの記述があるそうで、そのあたり、わざと平仄をあわせたのかもしれない・・。