・文春文庫で(上)(下)2冊になる。庄内藩から出た、幕末の風雲児。生家は庄内領清川村で酒造をやっている素封家だった。その長男に生まれた斎藤元司(のち「清河八郎」と名乗った)は小さい時から「ど不敵=自我を押し立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格」だった。「・・その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし、反面自己を恃(たの)む気持ちが強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった。・・中略・・ど不敵は百姓が居直った姿だとも言える。」(p.33)

 

 

・しかし、それにしても世間をあっと言わせるような行動を「性格」だけで描き」きれるものなのか?

 

・司馬遼太郎に清河八郎を主人公にした「奇妙なり八郎」という小編がある・・というので探して読んだ。「暗殺者」を描いた「幕末」の中の一篇「奇妙なり八郎」(pp.55-96)がそれだ。この中で、「怪奇的才人」とされた清河八郎の「運命」を呼び込んだのは、その刀であるという。「七星剣(しちせいけん)」といわれるもので、引き抜くと7か所に光芒がたったそうだ。(聖徳太子の太刀もそうだったという)。まあ、「小説」なので何でもありですが・・。しかし、研ぎ師からその刀の話を聞いた松平主悦介がその刀見たさに清河を呼ぶ。それがきっかけで一部の幕臣と知り合う事ができた・・・。

 

「奇妙なり・・」の方では、だましうちにあって暗殺された・・とある。清河は、素朴すぎるほどのわなにかかったことになる、策士だっただけにかえって油断した。おそらくかれ自身が不審だったろう。ひとが自分をだますなどとは、夢にも思っていなかったにちがいない。」(p.96)何せ清川は剣の達人であったので、風邪気味でその上、酒も飲んでいたというが、反撃することなく切り殺されたのが不審だ・・と当時言われたのだろう。

 

・「回天の門」の方は暗殺されるかもしれないのはわかったうえで、「走り出した同志を引きとめ、横浜焼き討ちを停止させる手段は、いまはただひとつしかない。そのことが明瞭に見えていた・・・・。」(p.318)ということで、自ら、あえて火中に飛び込んだ・・という解釈になっている。斬られてもあえて斬り返さなかった・・・という事まで書いてあるが、まあ、これは想像だろう。

 

・どちらが正しいのかはわからないが、藤沢説は、郷土出身の清河を思い切り持ち上げているのは間違いない。(清河神社というのが出身地清川にあるそうだ。そこの記念館も藤沢さんの情報源。)明治41年に清河に「正四位」の追贈が行われた。(後日(昭和8年)に、「神社」もできた。)。明治維新の「先駆者」としての役割が認められたのだろう・・。清河八郎記念館~回天の魁士 清河八郎~ (navishonai.jp)は、生誕100周年の時(昭和37年)に神社の境内に建てられた。

 

・いずれにせよ、当時は、藩の強力なサポートとかが無い中で、弁舌だけで動いたわけで、かなり無理はあったのだろう。清河八郎 - Wikipediaの解説も参考になる。ちなみに「回天」は、国事に奔走する男の一人として愛唱した、藤田東湖の「回天詩史」による。清川は、これに倣い、天皇に奉る書を「回天封事」と名付けた。(p.164),また寺田屋事件で暗殺された同志たちにささげた弔詞にもこのことばを用いている。(p.220)。