☆ sweet home ☆ -145ページ目

☆ sweet home ☆

大好きなsweet&簡単で美味しいお家ごはんを載せてます。
そのほかに、音楽情報など盛りだくさんでよろしくで~す♪
脱原発など日々、感じたことも載せています。

百人一首やったことある?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

 
 

1235年(文暦2年)のこの日、公家・歌人の藤原定家

(1162~1241年)によって『小倉百人一首』が完成された。

藤原定家の日記『明月記』の文暦2年5月27日の項に、定家

が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した

和歌百首の色紙が、京都・嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)

の障子に貼られたとの記述があり、この記事が小倉百人一首

の初出ではないかと考えられている。

この色紙は障子の装飾のために作成されたもので、当時は

この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」

「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。

その後、小倉山の山荘で和歌百首を選んだということから

「小倉百人一首」の名称が定着した。

百人一首とは、100人の歌人の和歌を、1人1首ずつ選んで

つくった和歌集のこと。『後撰百人一首』や『源氏百人一首』

などもあるが、通常、百人一首といえば『小倉百人一首』を

指し、歌がるたとして広く用いられている。藤原定家が選んだ

100首の内訳は、恋43、四季32、旅4、別離1、その他20である。

 

 
伝統ある百人一首ですが、実は都市伝説もあります。それは
選ばれた和歌が政治的によるものではないか」ということです。
 

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

 

第55歌 藤原公任(きんとう)

「心あてに 折らばや 折らむ初霜の おきまどはせる 白菊の花」

 

また秀歌ではなく一首に入っている和歌として、後鳥羽上皇と

崇徳上皇の和歌が含まれています。後鳥羽上皇と崇徳上皇は

承久の乱の首謀者であることからも、一首を選んだ後に

政治的配慮を踏まえて秀歌を選んだとする声もあります。

 

 

 

 

 

 

99歌 後鳥羽上皇

「人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」

 

100歌 後鳥羽上皇の皇子 順徳上皇

「百敷ももしきや 古き軒端のきばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」

 

 

 

97歌 藤原定家

「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩もしおの 身もこがれつつ」

 

89歌 式子内親王

「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」

 

 

9&7&8&9=16&17=33(11×3)

 

 

 

『百人一首』 を“歌織物”として解析された林 直道も、後鳥羽院

ー順徳院ー定家式子内親王の4人が4つのコーナーに配列

されることから、彼女の存在を強く意識していたのは間違いない

とされています (『百人一首の秘密~驚異の歌織物』 p.158)。

 

 

 

 

 

式子内親王

「いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし」

この和歌は藤原定家にあてたものではと考えられており、

藤原定家と式子内親王は恋愛関係であったのではと考えられて

います。

 

しかし、建久2 (1191) 年頃、式子内親王は謀反の疑いをかけられ

出家します。その際、僧・法然を師としたとされ、式子内親王

は法然との恋愛関係もあったのではと考えられています。

 

 

 

 

通常の歌集では様々な美しい植物が登場するのに対し、

百人一首では春の植物の梅が一首と桜が六首、秋の

植物の菊が一首と紅葉が六首に限られている。

春と秋で1対6(一首と六首)という数合わせもなされている。

一条院皇后(中宮)定子は平安中期の国風文化を盛り上げた

中心人物である。定子がいたからこそ清少納言は『枕草子』

を書いたのである。しかし定子の父・道隆が亡くなり、その

後権力を握った道長によって定子は立場を追いやられ、3人

目の子(媄子内親王)を生んだ直後に亡くなってしまう。

日本の文化を盛り上げながらも時の権力者によって立場を

追われた高貴な男女一対、それが「菊」と「梅」ではない

だろうか。撰者・定家は彼らを追いやった権力によって

良い待遇が得られ、官位も上がったという立場である。

心中に相当なジレンマがあったのではなかろうか。

 

余談になるが、上述の「1対6」を語句ではなく歌人の選択

に見つけた。女房の数である。

中宮定子に仕えた女房が1人、中宮彰子に仕えた女房が6人

である。定子の女房は清少納言、彰子の女房は和泉式部、

紫式部、赤染衛門、大弐三位、小式部内侍、伊勢大輔である。

 

 

 

 

 

 

68歌 三条院

「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」

37歌 文屋朝康 

「しらつゆに風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける」

 

 


 

 

 

「百人一首と百人秀歌は符合しており、謎のメッセージが隠されている」

色紙はかなり散逸。定家自身の手によるものは現存する色紙の

半分以下とされている。散逸した色紙からどうやって百首を

編纂したのかと訝(いぶか)しんでいたが、どうやら完成形の

写本が、子孫によって守られていたようだ。

しかしそれは長く秘伝とされ、世に出るには室町時代に連歌師

の宗祇(そうぎ)が紹介するのを待たなくてはならなかった。

『百人秀歌』に至っては、昭和の時代に宮内庁の書庫から発見

されるまで、その存在さえ忘れられていた。かくも偉大な歌人

の著作が隠されていたのは何故か。

それは百人一首が、鎌倉幕府に歯向かった2人の天皇の和歌を

含んでいたからだろう。承久の乱で鎌倉幕府に反旗を翻し、

罪人として隠岐と佐渡にそれぞれ流刑にされた、後鳥羽上皇

とその息子・順徳院である。
時雨亭跡
↑時雨亭跡へと向かう階段

定家が13歳年上の歌人で元斎宮、後白河法皇の子女の式子内親王

(しょくし/しきしないしんのう、1149~1201)を慕っていた

逸話は有名だ。

さて、最後にお茶を濁すようだが、最近の研究では、式子の想い

人は法然であったという説が有力だ。

偶然なのか、定家の墓と式子内親王の墓を4方向から挟むように

それらの寺がある。死んでなお、恋や恨みとその因縁が続いて

いるというのは考えすぎだろうか? でも、法然がじっと2人を

見守っているようなドラマをつい想像してしまう。

だから歴史は面白い。歴史にいざなわれていく旅の道も又。

 

 

 

 

鎌倉時代に法然上人が浄土宗を開いて、多くの人が阿弥陀仏

の救いを聞き求める中、その法然上人を弾圧し、流刑にした

上皇が後鳥羽上皇です。

しかし後年、後鳥羽上皇は浄土教の教えに目覚めました。

 

院政の最中の承元元年(1207年)後鳥羽上皇が熊野に参詣

している最中に、上皇が寵愛していた女官と法然上人の弟子

が密通し、さらに出家させてしまいました。

その話を熊野詣でから帰ってきた後鳥羽上皇が聞いて激怒し、

また浄土宗の繁栄を妬む天台宗、真言宗などの諸宗からの

訴えもあり、ついに浄土宗の解散、念仏布教の禁止、法然上人

の土佐への流罪、主だった弟子の死罪あるいは流罪が決まった

のです。これを承元の法難と言います。

 

法然上人の弟子であった親鸞聖人も初めは死刑の判決だった

のですが、法然上人の信奉者であり、親鸞聖人の義理の父で

ある九条兼実の計らいで越後に流刑となりました。

親鸞聖人は尊敬する法然上人を無実の罪で流刑にし、法友

たちを死刑流刑にした後鳥羽上皇以下大臣たちに対して猛烈

に怒られ、主著の教行信証にはこう書かれています。

 

 

 

 

今、「田辺聖子の小倉百人一首」を読んでて、百人一首を
暗記しようと思っているけど、なかなか暗記できないですあせる
こんなサイトがあるみたいですねニコニコ
 
 
 
 
 
 
石碑(0007560)
所在地 右京区嵯峨小倉山町(常寂光寺内)
位置座標 北緯35度01分12.0秒/東経135度40分08.3秒(世界測地系)
建立年  
建立者  
寸 法 高107×幅31×奥行25cm
碑 文  
  [南]
  小倉百人一首編纂之地
  [西]
  藤原定家卿山荘址
 
位置図