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☆ sweet home ☆

大好きなsweet&簡単で美味しいお家ごはんを載せてます。
そのほかに、音楽情報など盛りだくさんでよろしくで~す♪
脱原発など日々、感じたことも載せています。

 

 

天武天皇創建大峯山護持院(吉野山)

 

天武天皇 夢見の桜

 

 

 

残念ながら、桜は散ってしまい葉が茂っていましたキョロキョロ

境内の他の桜は咲き誇っていました照れ

 

 

 

櫻本坊は金峯山修験本宗の別格本山で、大峯山寺の御持院

のひとつです。山岳修行を行う道場で、毎年7月に行われる

大峰奥駈修行(おおみねおくがけしゅぎょう)をはじめ、

瀧行や勤行、瞑想などの修行が行われています。

櫻本坊のはじまりは正式な時期は不明ですが、奈良時代

(天智10年)に大海人皇子(のちの天武天皇)が吉野にて

修行していました。

大海人皇子が壬申の乱に勝利し、天武天皇となる前に

「極寒の冬の夜に満開のサクラの夢」を見ました。役行者

の高僧・角乗(かくじょう)に夢診断を命じたところ

「桜は日本の花の王であり、夢は天皇になるよい知らせでしょう」

と答え、翌年天武天皇が皇位についたとされています。

天武天皇は夢に現れたサクラを求め、サクラのある場所に

道場を建立し、「櫻本坊」と名づけました。

以降、天武・持統天皇の勅願所となり1300年以上修験道の

道場としての役割を果たしています。

夢見の桜は吉野に咲くほかのサクラと異なり、早い時期に

咲くのが特徴です。3月中旬に咲き始め、4月上旬には散り始めます。

 

 

 

 

 

現在、本堂に御坐します「天武天皇ご神像」は、岡倉天心

デッサンによる(東博所蔵)、フェノロサの調査記録に基づいて、

平成の御代に復興させて頂き今に至ります。

 

 

 

 

昨年のNHK朝ドラマ「虎に翼」は天武天皇から

ヒントを得たのかも!?

👇

激動の時代の中で、「野に放たれた虎」とも称された日々のこと。

 

 

 

 

 

トップバッターは天智天皇! 飛鳥時代の天皇がなぜ百人一首の最初の歌を飾っているかご存じですか?| 時雨の百人一首

 


 

 

 

672年、古代日本最大の事件、「壬申の乱」が起こりました。

時の天皇・弘文天皇(大友皇子)に、先帝・天智天皇

「実弟」・大海人皇子が挙兵、遂に、「甥」・弘文天皇を倒して、

新帝(天武天皇)に即位したのです。この古代最大の「内戦」

天武天皇を通して、見てみましょう。そこには事件の意外な

「真実」が隠されていたのです。

天智天皇 671年没(享年46歳)
天武天皇 686年没(享年65歳)

と言われていますが...天智が死んだのは、天武より、686年-671年

=15年、つまり15年前
すると、天智が死んだ時の天武の年令は、65歳-15歳=50歳

つまり50歳
どうでしょう。天智が死んだ時の年令が46歳なのに、その時、

「弟」の天武は50歳!! 4歳も年上の「弟」等どこにいるでしょうか? 

智と天武は「兄弟」か? 私は兄弟では無かったと思います。

では、なぜか? それは、天武の妃を見れば分かります。

天智天皇大田皇女─────────┬大津皇子
    │             └大来皇女
    ├ウノサララ皇女(持統女帝)──草壁皇子─┬元正女帝
    ├大江皇女─────────┬長皇子  └文武天皇──聖武天皇
    │             └弓削皇子
    └新田部皇女─────────舎人親王──淳仁天皇

上記の通り、天武の妃の四人までが、「兄」天智天皇の娘なのです。

 

私は「金多遂」だったと思います。

天武系の諸天皇は「天皇家の菩提寺」に祀られていないと言う

事実です。天智以前及び光仁以後の諸天皇が祀られているにも

関わらず、なぜか、天武系は祀られていません。そして、これ

が核心なのですが、天武が新羅人だった最大の理由は、

「壬申の乱」にあるのです。

天武が日本人でなかった以上、「壬申の乱」は決して「甥殺し」等

ではなく、「新王朝」の始まりだったのです。そして、彼の心中に

あったもの、それは「金春秋が新羅の王ならば、俺は日本の天皇

になってやる!!」と言った気概ではなかったでしょうか?

 

 

 

 

 

 

鎌倉時代の1218年(建保6年)に宋から帰国した俊芿(月輪大師)

によって再興。仙遊寺の旧境内地+武将・宇都宮信房から邸宅地

を寄進され、伽藍が10年がかりで整備。その際に境内に湧きはじ

めた水にちなんで現在の寺名となりました。当時、俊芿が記した書

「泉涌寺勧縁疏」は国宝に指定。

皇室との結びつきが強くなったのは、俊芿が後鳥羽上皇・後高倉院

(法皇)から帰依、信仰され、再興の際に支援を受けたことから

北条政子北条泰時など鎌倉幕府との結びつきも)。

 

霊明殿

霊明殿

可憐な唐門から白砂の庭のむこうに奔されるのが霊明殿です。霊明殿

とは、歴代天皇の御尊牌(お位牌)をお把りした場所の通称ですが、

泉涌寺の霊明殿は皇室の御崇敬において他に異なるものがあります。

現在の霊明殿は、明治17年に明治天皇の思し召しによって宮内省が

再建したもので、重厚な入母屋造り檎皮葺き、外観は辰殿風、すべて

尾州槍材で造られた品格ある建築物です。殿内は内陣・中陣・外陣

に分かれ、内障は5室の御厨子となっています。それぞれに御扉を設け、

中央御扉内には四条天皇御尊像と御尊牌をはじめ、明治天皇・昭憲

皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后(皇室祭杷令の

定める前四代)の御真影・御尊牌が奉安されています。 それ以前の

天皇・皇后・門院方の御尊牌は左右の御扉内に、さらに左右には親王

・内親王方の御尊牌も奉安されています。
内部の荘厳具・仏具は、英照皇太后・昭憲皇太后ほか皇族方から

御寄進されたもので、毎日御廻向の香畑の絶えることがありません。

 

 

 

総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、

奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇

光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする

霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。 

全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、

秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。

 

 

 

 

 

 

 

 

天智天皇から光仁天皇の間の天皇が抜けている

これについては、井沢元彦氏の「逆説の日本史2」で、天智天皇

が亡くなった後、皇位が天武天皇に移り、その後、称徳天皇まで

天武天皇系の天皇が続くことになりますが、称徳天皇に子が

なかったため、再び天智天皇系の光仁天皇に皇位が戻ったこと

が理由ではないかと述べられています。

 

天智天皇系だろうと天武天皇系だろうと、どちらも天皇なのだから、

泉涌寺に祀られてもいいのではないかと思います。

しかし、井沢氏は、兄弟であるはずの天智天皇と天武天皇は、もし

かして兄弟ではないのではないかと推測しています。

そうなると、天武天皇は天智天皇の正統な後継者ではないので、

以後、称徳天皇までの天皇も天武系であるので、正統性がないと

いうことになります。

だから、泉涌寺には、天武天皇から称徳天皇までの御尊牌が

祀られていないのだということです。

また、天智天皇には大友皇子という子がいたので、当然のこと

ながら、天智天皇が亡くなった後は大友皇子が即位して、以後、

その子孫が代々皇位につくはずでした。

しかし、壬申の乱で大友皇子は天武天皇に負けて亡くなって

います。天武天皇は皇位を天智天皇系から奪ったわけですね。

こう考えると、天武天皇系の天皇には正統性がないということに

なります。

 

 

 

 

  1. 663年 日本

    白村江で唐に大敗す

  2. 667年 朝鮮

    唐・新羅、高句麗を攻め、翌年滅ぼして平壌に安東都護府を置く

  3. 669年 日本

    藤原鎌足没

  4. 671年 日本

    天智天皇没

  5. 672年 日本

    壬申の乱

  6. 673年 日本

    天武天皇即位

  7. 676年 朝鮮

    新羅による半島統一

 

 

 

テレビ東京「善徳女王」で金春秋が出演していましたね~~

 

善徳女王は新羅史上初の女王です。

時の王であった善徳女王ソンドクニョワン(ぜんとくじょおう 第27代王)は、

王族の金春秋キムチュンチュ(きんしゅんじゅう)を高句麗に派遣して

救援を求め、この難局を乗り切ろうとしました。

追い詰められた新羅が頼ったのは、中国大陸のでした。

韓流プレミア 善徳女王

 

 

 

 

金春秋・・・後の武烈王 (ムヨル王)

 

 

(Wiki)

武烈王(ぶれつおう、603年 - 661年[1])は、新羅

第29代の王(在位:654年 - 661年)であり姓は金、は春秋。

 

文武王(ぶんぶおう、626年 - 681年7月24日)は、新羅

第30代の王(在位:661年 - 681年)。姓は金、は法敏。

先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄

の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)

の金善品(真智王の弟の金仇輪の子)の娘の慈儀王后[1]

在位中に高句麗を滅ぼし、またの勢力を朝鮮半島から

駆逐して、半島の統一を果たした。翌661年の高句麗戦中

に父が死去したために帰国して王位に就く[3]

 

 

 

 

皇紀1357年=持統11年(697年)2月16日、先帝・持統

天皇の孫・軽皇子(文武天皇)が15歳で立太子される。

 

 


 

第42代文武(もんぶ)天皇(聖武天皇の父)

697年 即位(15歳)

701年  大宝律令発布

707年 崩御(25歳)

👆

 名前が同じ。しかも25歳で崩御!?

持統天皇&文武天皇は火葬!

火葬の始まりと仏教伝来

 

 

 

 

697年、草壁皇子の息子だった軽皇子(かるのみこ)という

人物が皇位継承争いを勝ち抜き、文武天皇として即位します。

藤原不比等はこの文武天皇の即位に大きく貢献したと言われ、

文武天皇の時代に大きな躍進を遂げることになります。

701年になると歴史的に有名な「大宝律令」という律令が

制定されます。

藤原不比等は、この大宝律令の制定のプロジェクトチームの

一員でした。当時、藤原不比等は40歳前後であり、おそらく

はサブリーダー的なポジションでした。

(プロジェクトリーダーは刑部皇子という皇族出身の人物でした)

 

 

 

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(1-48)

by 柿本人麻呂

持統は703(大宝2)年に、58歳で崩御しました。天武と自分

の愛息である草壁の皇統が、継続していくことを望んでの死

であったでしょう。

そして4年後の、707(慶雲4)年、文武が25歳の若さで崩御

すると、わずか7歳であとに残された首皇子に皇位を継がせる

ため、文武の母である阿陪皇女が皇位を預かる形で即位し、

第43代元明天皇となります。

首が15歳で皇太子となってからも、その成長を待つため

715(霊亀9)年、文武の姉である氷高内親王に皇位を譲り、

第45代元正天皇とし、太政天皇として後見しました。

首皇子は、その5年後の724(神亀元年)に皇位を継承し、

第46代の聖武天皇となります。草壁が立太子してから43年、

持統が即位してから35年の年月を費やして、草壁の系統への

皇位継承が盤石したものとなったのです。

 

 

 

 

 

「吉野の盟約」天武天皇が即位した後の673年に、皇族や

有力豪族たちと結んだ誓約

681年に発せられた「帝紀・旧辞」の編纂命令

彼が関与した「帝紀・旧辞」は、のちに『古事記』(712年)

や『日本書紀』(720年)といった日本最古の歴史書の基盤

刑部親王が高松塚古墳の被葬者である可能性?

 

 

実は「文武天皇」というのも諡号なんですよ。

『続日本紀』の文武天皇即位前紀では、天皇を指して

天之真宗豊祖父天皇」という国風諡号で呼んでいます。

11月20日 天皇を檜隈安古山陵ひのくまのあこのみささぎに葬り奉った。

 

 

(Wiki)

大宝律令は中国(唐)の方式が基準の 制度 への転換

冠位十二階 の制度は、当初は 徳目 をあらわす漢字で個々の 

官位 を示していたが、数値で上下関係を示す中国式に替わっている。