今年の春に、談山神社へ行ってきました![]()
だいぶ遅れてしまいましたが、ご紹介します♪
有名な「大化の改新」にまつわる場所です。
この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、
中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げら
れました。
多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり
「大化改新設合の地」の伝承が残りました。
現在の社号の「談山神社」もここからきています。
けまりの庭
末社 総社拝殿
福禄寿大神
毎日新聞奈良支局@MainichiNara
あり! やー! おー! 桜井の談山神社で恒例の
春のけまり祭開催中です
蹴鞠の日・・・4/29&11/3
定恵には第38代・天智天皇のご落胤とも言われる伝承や
談山神社の前身・妙楽寺を創建し、父・藤原鎌足の遺骸
を摂津国安威山(大阪府)から改葬して、妙楽寺に
十三重塔を建立したという伝承が残されています。
羅漢・・・悟りを開いた高僧
サンスクリットのアルハンの音訳を阿羅漢として、
それを略称にしたものが羅漢
木造狛犬
左右にある旗
鎌足公御神像
中央に藤原鎌足像、向かって左側に藤原不比等像、右側に勝軍地蔵像
不比等公像
勝軍地蔵
👆
😮👁️👁️👁️
神廟拝所 鎌足公御神像
かつての「講堂」時代の阿弥陀三尊像に代わり、談峯如意輪観音
菩薩坐像と鎌足公御神像を祀っていますが、鎌足公御神像は元々
は明日香村大原にあった藤原寺(とうげんじ:鎌足誕生堂)に
祀られていたものを廃仏毀釈の際にこちらに移したものだそうです。
神廟拝所 藤原不比等像
奈良時代以降、明治維新に至るまで千年の繁栄を遂げた藤原氏の
家祖は藤原鎌足ですが、その基盤を築いたのは不比等と言えます。
不比等の出生については曖昧で、母は車持君与志古娘(よしこの
いらつめ)とされますが、『興福寺縁起』によると鏡王女(中大兄
皇子に召され、後に鎌足の正妻)とも伝えます。このように出生の
公開に憚られるところがあったことから、天智天皇皇胤説の根拠
とされています。
鎌足の死後、不比等は大納言・右大臣を歴任し、藤原氏の地位を
安定させ、特に律令体制の確立に力を入れ、大宝律令制定に参画
しました。また、平城京遷都を推し進め、更に大宝律令の改訂を
主宰して養老律令を完成させました。
701(大宝元)、不比等が大宝律令の撰述などで活躍していた頃、
多武峰に方三丈の祠堂(現在の本殿)を建立して鎌足神像(本殿に
祀られている方)を安置し、聖霊院と号しました。
不比等の死後、娘 光明子は聖武天皇の皇后(光明皇后)となりました。
因みに、日本に伝存する最古の正史『日本書紀』を編纂した中心人物
が不比等と見られています。『日本書紀』には権力者が真実を隠す
ために印象操作をしようとした痕跡が見て取れ、その黒幕とされる
のが不比等であり、父 鎌足を英雄にするために蘇我氏を悪役にした
との疑惑があります。一方、鎌足が神道派の物部氏と共に仏教導入に
猛反対し、蘇我氏と対立したとの不名誉な記述も見られます。
「三方にらみの像」
勝軍地蔵信仰が流行る上で重要な役割を担ったのが談山神社でした。
鏡女王の夫であった中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)。
中大兄皇子と中臣鎌足が談合を行った場所が、今も談山神社の裏手
の山中に残されています。飛鳥寺での蹴鞠に始まり、不思議な縁で
結ばれる盟友ですが、二人の固い絆は鏡女王抜きには語れないのかも
しれません。
| 2025年の巳の日(※ 不成就日 ) | 己巳の日 | |
| 8月 | 4日(月)・16日(土) | 28日(木) |
| 9月 | 9日(火)・21日(日) | |
| 10月 | 3日(金)・15日(水) | 27日(月) |
| 11月 | 8日(土)・20日(木) | |
| 12月 | 2日(火)・14日(日) | 26日(金) |
👆要注意日![]()



























