猿沢池から、奈良町方面へ歩くと猿田彦神社に

遭遇しましたニコニコ

 

猿田彦神社

 

この神社は、その創建は平安時代、9世紀初頭の平城天皇の

時代に遡るとされ、南側の「住吉神社」と同様、かつては

大規模な寺院であった「元興寺」の境内にあった神社である

とされています。しかし奈良時代は大寺院であった元興寺が

次第に荒廃していく中、宝徳2年(1450年)には火災等で

焼け落ちることになり、その後に現在の位置に改めて再建

されたものとされています。

祭神は猿田彦命(サルタヒコノミコト)・市杵島姫命

(イチキシマヒメノミコト)を祀っており、またの名を

「道祖神社」と呼ばれているように地域の道祖神や開運の

神として、長年奈良町界隈の地域住民の信仰を受けてきました。

 

 

 

 

ご祭神 表筒男命,中筒男命,底筒男命
ご由緒

元興寺の一院であった仙光院が衰えたのち、勝南院が

建立されたが、その勝南院内に古くから鎮座していた

という。宝徳2年(1450年)、元興寺と興福寺の争い

を起因とする火難に会い、その跡は人家で占められる

ようになった。

 

 

 

 

ならまちの起こり

 

 

 

古い町家が軒を並べる奈良町は、平城京への遷都以来、
元興寺の門前町として発展してきました。
家々の軒先を彩り、奈良町の景観を特徴付けている
赤いぬいぐるみは、「庚申(こうしん)さん」の
お使いの申をかたどったお守りで、災いを代わりに
受けてくれるとされており、身代わり申と呼ばれています。
ならまちのまちなみ景観の形成要素の1つとなっています

身代わり申の掛かる奈良町界隈の画像2

 
 

その昔、人間のお腹の中には三尸の虫という虫がいて、

庚申の日の夜、人が寝静まると体から抜け出し、その人

がした悪事を天帝に告げにいくと信じられていました。

人々は、話を聞いた天帝が与える罰で、寿命がちぢまる

のを恐れ、0日に一度回ってくる庚申の日は、寝ない

で青面金剛像を供養しました。

奈良町の伝説では、三尸の虫は猿が毛づくろいする姿を

みて、自分たちが食べられる様子にみえたので、恐れを

なして逃げだしたといいます。そこで、奈良町の人達は、

災難を運んでくる三尸の虫を退散させるため、いつも

軒先に猿をつるすおまじないをするようになりました。

これが、奈良町で身代わり申がつるされるようになった

始まりというわけです。

 

 

 

 

そういえば、0歳「還暦」になると「赤いちゃんちゃんこ」を

着る風習がありましたよね~~

赤には魔除けの意味があるそうですね。

前日に、夕食に入った店の前にも「身代わり申」が

飾ってありました。

「猿沢池」~「猿田彦神社」~「身代わり申」 びっくりマーク 

 

 

 

●猿が街中に出没した頃
古老の話に、春日神社のあたりは猿が多く人間には迷惑だが、

春日猿といって広い境内から春日原始林に住んでいて、手出し

するのは憚られた。昭和の始めごろは登大路の民家にはいって

ワルサをした。

奈良公園の公会堂は後ろの庭園が森林になっているので、天井

裏がサルどものす窟になっていて、公園課では追い立てるのに

苦労した。商品陳列所(現・仏教美術センター)の屋根瓦を

なぜかサルどもが好んで剥がす。被害甚大となり、サル退治が

本格化、昭和初期にはもう奈良公園から姿を消した。

●奈良公園にあった動物檻と遊具
南大門の手前を右/東に春日野球場があった方へ折れたところ

に春日山に生息する動物、キツネ、タヌキとニホンザルの檻が

あり、よく見に行った。キツネもタヌキも絵本にあるのと違って

小さくて臭かったな。たしか昭和30年中頃まであったとおもう。

 

 

 

 

 

 

猿というのは、庚申の「申」=干支の「サル」がこの信仰と

結びついたものだとされる。昔から猿は「厄が去る(猿)」

という語呂合わせで、縁起のよい動物として扱われてきた。

 

【京都の摩訶異探訪】人の体内には3匹の虫がいる!? 庚申さん信仰とくくり猿「八坂庚申堂」 - Leaf KYOTO道教の教えでは、人の体内には3匹の虫「三尸(さんし)」が棲んでいるという。1年に6度ある庚申の夜、人が眠っている隙をついて三尸の虫が体内から抜け出し、その人間の罪や悪事を天帝に告げ口をするとのこと。天帝は報告された罪の重 […]リンクwww.leafkyoto.ne

 

 

 

中国において猿(中国の猿は漢字で「猴」となり類人猿

を除いたサルを意味する)は縁起の良い動物で、「猴」

は「候(古代中国の爵位)」と同音であることから、

昇進・昇級の意味を持っているとされています。

日本において猿は昔から生息する動物であり、山神の使者、

もしくは山神そのものとされていました。。

陰陽の組み合わせで「申年」は必ず陽と陽の組み合わせに

なります。

日本神話で有名な猿田彦神も猿がモデルになっていますし、

山王神社(日枝神社・日吉神社)系列では猿を神の遣いと

しています。

天狗とも結びついていろいろな伝承が残っています。

 

 

 

 

天宇受売命(あめのうずめのみこと)から、猿田彦と結婚して

佐瑠女(さるめ)に改名するなんて、とってもラブリーなご夫婦

ですよね。また、ある時には「猿女君(さるめ)」とも呼ばれ

ていたそうですよ。猿田彦大神が高天原から道案内する時に

出会ったそうですが、どちらが先に見初めたのでしょうね。

 

 


 

 

 

 

 

天鈿女命・天宇受売命(アメノウズメ)は、天石屋戸にこもって

しまった天照大御神を外に連れ出すために、天石屋戸の前で

踊り、天照大神の興味をひいた芸能の神です。他の表記の

され方としては、あめのうずめ、天宇受賣命、大宮売神、

大宮能売命、オオミヤノメノカミ、宮比神、ミヤビノカミ、

天宇受賣、天細女、猿女君などとも呼ばれます。

 

 

 


 

『日本書紀』第九段の本文では天孫降臨を行ったのは高皇産靈尊

(タカミムスビ)で、アマテラスは一切登場しない。
 猿田彦命(サルタヒコ)と天宇受売命(アメノウズメ)の話も

なく、五伴緒のことさえ書かれていない。
 これは一体どういうことなのだろう?

天孫降臨の前にまず葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定

すべく天穗日命(アメノホヒ)や天稚彦(アメノワカヒコ)を派遣

するも上手くいかず、最終的には經津主神(フツヌシ)と武甕槌神

(タケミカヅチ)をやって恫喝するように大己貴神(オオナムチ)

に国譲りを承諾させた。


社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、

香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神

を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀と

している。

引用元:Wikipedia「春日大社」

奈良市の世界遺産・春日大社に、「神の使い」として尊ばれる

鹿の姿を表したブロンズ製の「 神鹿しんろく 像」が設置され、

16日に除幕式が行われた。

像は高さメートルで神を象徴する鏡やサカキを背に乗せている。

同大社が、摂社・若宮神社で20年に1度の大改修「式年 造替ぞうたい 」

が昨年完了したことを記念し、参道の「 二之鳥居にのとりい 」付近に新設した。

 同大社にまつられる 武甕槌命たけみかづちのみこと は白鹿に乗って来たとの言い

伝えがあり、鹿は古くから保護されてきた。信仰への理解を深めて

もらうとともに、写真スポットとして発信を促す狙いもある。

2023/12/17 6:00

 

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鹿の背中に猿が乗り、2匹を見上げる様に狐がそばに

たたずんでいます。「鹿猿狐ビルヂング」を象徴する

3匹の動物たちがお出迎えです。

こちらが鹿猿狐ビルヂングの正面入り口。道を一本

向こうに越えれば、猿沢池が目の前です。

 

 

 

奈良でお選びいただくなら、断然おすすめしたいのが

奈良本店限定の「鹿猿狐刺繍」や「花鹿刺繍」。

所在地:奈良県奈良市元林院町22 鹿猿狐ビルヂング

 

 

 

 

 

天岩戸開きに貢献の天宇受賣命は天孫降臨も随行猿田彦神の

名を明らかにし、後に猿田彦神の死後はその名を継いで猿女君

(さるめのきみ)の祖となる。
・采女命の采女祭→猿田彦神(雷神)の声が収まる「雷乃収声」やその前後
「雷乃収声」→天宇受賣命により海に送られた猿田彦神(雷神)の溺死
天宇受賣命は猿田彦神の死後にその名を担う→猿田彦神の祭祀を担う

→采女祭が「雷乃収声」の頃に行なわれる信仰思想のベース

 

「猿沢の池もつらしな吾妹子が玉藻かづかば水も干なまし」
 

猿沢池に沈めれらる花扇は采女だけでなく、春日の「日巫女」が

祀っていた地主神猿田彦神も暗示しているのではないでしょうか?